先日の、吉野山でのお篭もり修行(?)の最後の日、
朝6時半から45分間開催されている、
金峯山寺蔵王堂の『勤行』に参加してから
大阪に戻って来ました。
何とも言えない雄大且つ荘厳さに圧倒されつつも、
特に般若心経を唱えている時は、
何故か涙が出てきました。。。正に万感の想い、
そして感無量の境地でした。
うまく言葉では表現しきれませんが、
自分自身の心が今求めている
(もしかしたら、私の人生全てで求めている)もの『そのもの』が、
そこにあるという感じでした。
そして先日の日曜日の・・・のんびりとした陽気の中、
午前中は私が最も心惹かれる、
その金峯山寺蔵王堂(=蔵王権現さま、修験道)が
何故素晴らしいのか?・・・
八尾のサンマルクカフェに3時間篭って(笑)、
今まで見聞きしたあらゆる情報をまとめながら、
せっせと見える化(文書化)しておりました。
1300年以上前、我が国で自然発生的に起こった
日本独自の神仏習合の“信仰”
つまり「日本人を含む全ての人間のあるべき姿(真実・真理)」を
私自身が完璧にまとめ上げることは不可能ではありますが、
少しでもその真髄に近づいていきたいという
願望&目標が常に私の心の中にあります。
真髄に近づく程に、自他が幸福になれるという、
ある種の『確信』があります。
また“信仰”という超右脳的・超常識的なことを、
左脳的に理論建て自分を含む、
多くのの方々にその素晴らしさを理解出来るようにすることが、
私のある種の『生き甲斐(ライフワーク)』なのかも知れません(笑)。
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・・・ということでここからは
今までの私の研究結果(=よもやま話)であります(笑)。
正しいかどうかは分かりませんが、
ご参考までにご覧いただければと思いマス(^^)♪
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【よしこちゃんの『荒行』よもやま話】
「この世で最も好きな場所は?」と聞かれたら
私は「『お四国』と『吉野・大峰山界隈』です」
とお答えいたします。
一般的に『四国』という地名に『お』はつけませんが、
『お四国』という言葉に意図的に変換しますと、
「あ、この人はお遍路さんやな」と、分かる人には分かります(笑)。
その場所に対する一種の敬語であります。
で、『吉野・大峰山界隈』とは、
知る人ぞ知る、1300年以上の歴史のある
修験道(しゅげんどう)の総本山(メッカ)であります。
これら二ヶ所に共通するのは、
「大自然の中で『荒行』をすることによって悟りを得る為の場所」
ということです。
よしこちゃんはどうやら、この
『行者魂』を引き継ぐタイプの人間のようで、
それらの場所にいるだけで、
何だかそこに『自分の居場所』があるような気がし、
冴えて、そしてあらゆる感覚が「覚醒めて」来ます。
最近「パワースポット」という言葉や場所が流行っておりますが、
系統としては、それと同じようなものであります。
しかしながら、軽々しく和製英語で「パワースポット」と呼ぶには
その場所自体や、その場所を守り継承して来た
先人たちに対して失礼で、あまりふさわしくないと私は考えております。
(第三者に分かりやすく伝えるために、
仕方がなしに「パワースポット」という言葉を使っているだけです)
私のこの度の人生の目的として、
「真理・真実(ありのまま)を的確に把握し、
それに基づいた判断・行動をする。人生を歩む。
そしてそんな境地・生き方を、多くの人に伝えて、逝く。」
というものがあります。
表と裏、光りと影、陰陽・・・
それら娑婆の対立世界を超剋した境地を
目指したいという願望があります。
この願望は、本能(食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲など)
という“動物的ヒト”(下部の欲求・願望)とは
“次元の違う種類”の願望であります。
上記の下部の欲求とは、
自らの生命を維持するための基本的な欲求であると共に、
自らの苦難や苦悩、葛藤の種であり、そして
『自分の人生修行(よりよい自分へ向かう)の手がかり』であります。
多くの人間が、陰に陽に自ら率先して、
その下部の欲求・願望の『甘い罠』に引っかかり、
心身を病み、人間関係をおかしくし、人生全体を狂わせて、
「自分が何故人間として生まれて来たのか?」
「この人生で何を成すべきか?」という
自らの使命役割への気づき、それをまっとうする人生(境地)まで
到達せずに、人生を終えて逝っております。
自分が霊性を有する人間として、この世に生まれたその意味を自覚し、
自らが与えられた使命・役割をまっとうする為に
正しくも厳しい『人生修行』によって、
“下部の欲求”を超剋・昇華させて、
“上部の欲求”(真理・真実に目覚め、
世のため人のために生きたいという願望。『カミ的人間』)を
着実にこの人生で達成してゆく生き方に
自らの手で、ステップアップさせなければならないと
私は感じており、その過程こそが、
真の人生の、歩むべき道なのだと捉えております。
このような場所におりますと・・・
さらに、そこで荒行を徹底的に正しくやればやる程、
真理・真実が観得て来ます。
逆に都会(様々な人間が生活をする場)は、邪気が多い。
誘惑も多い。それらが多い程に、真理・真実が観得て来ない。
自分自身の中に「大自然(悟りの境地)」を持つまでは、
お四国や吉野界隈のような
悟りを得やすい場所に篭もり、その場所の『気』を頂きながら
悟りを目指す方が、それを得られるスピードが早くなります。
加えて、自らの心身に敢えて苦難を与えれば与える程、
(その究極は「死にかける」ということです)
それを得られるスピードは上がります。
行者の中には、余りにも早く悟りを得たいが為に、
ハイレベルな苦行をするようですが、
(苦行に酔うという心境)
それもまた心に歪みがあり、死にかけるのではなく、
本当に死んでしまった行者も多いようです。
早く悟りを得たいという気持ちは分かりますが、
命あっての悟りであり、何の為に自分は山に篭もって
修行しているのか?(自らの悟りを衆生に広め
衆生を幸福へと導くため)常に把握しながら、
修行に励まなければなりません。
・・・大自然に篭もって荒行をするのが何故いいのか?
それが何故かと言われても、やったことのある人や、
それで実際効果の出た人にしか的確に理解出来ないと思われます。
理屈ではなかなか説明が出来ません。
自らの感覚(超感覚)・感性(霊性)で、
曲がりなりにも一つ一つそれを掴んで参りました。
娑婆の世界において、言語化や見える化出来ないものは
虚実であり、信じられないものと
なってしまっている傾向にあります(唯物主義)、
全ての真理・真実の95〜98%程は言語化・見える化、
そして理詰めで説明出来ないものだと、私は観ております。
(多くの人は、可視化出来るたった数%の真理・真実だけを見て、
100%のそれを把握したとカンチガイし、
間違った判断・行動をし、ドツボにハマって行っております)
が、我が国の悠久の歴史の中で、
ごく一部の人たちが、
感覚(超感覚)・感性(霊性)を研ぎ澄まし、
覚醒させることにより、自他の人生を飛躍的に向上させ、
国家・世界を生成発展させ続けて来たのも
また一つの事実であります。
現在我が国には、この修験道の総本山・吉野山以外にも、
真言宗の高野山や、天台宗の比叡山などなど、
大小様々な日本古代の信仰が、
消滅せずに根強く残っています。
(※近代以降に開創された、所謂「新興宗教」は、
私が論ずる『信仰』には当てはまりません)
数々の動乱、戦争、権力闘争・・・
はたまた明治の廃仏毀釈、大東亜戦争など、
過去あらゆる消滅の危機がありましたが、
それでも残って参りました。
それが何故かと申しますと、
時代を超剋する『本物』であり、
そこに真理・真実が在るからであります。
例えば、企業も、信用信頼があり、
よい品・サービスを提供し続ける・・・
社会的に必要であり続ける企業は生き残り、
老舗となってゆくのです。
信仰であれ企業であれ人間であれ、
偽物や虚実は時代によって淘汰され、
消えて逝くものなのです。
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【そもそも「信仰」とは? よもやま話】
『信』じて『仰』ぐ、全てを委ねる。
全ておまかせする存在。
大自然・大宇宙(森羅万象の法則)から導き出された
生き方・あるべき姿、そのもの。
「大自然・大宇宙(森羅万象の法則)」と書いても、
全く意味不明でございます(笑)。
そこで我々の祖先は、あれこれ考え、思考錯誤をし、
『カミ(上、神)』というものを創造されました。
最初は山とか海とか岩とかが「カミ」の象徴であり、
祈り・祈願の対象でありました。
次に登場したのが、「鏡」と、
カミを祭るための社(建物)であります。
鏡は、自分自身の中に既にカミが宿っていて、
その自身のカミとの対話(祈りの対話、交信)を通して、
自他の幸福を達成してゆくようになりました。
祈りの対象は、山・海・岩というたぐいのものから、
神社という建物や、その中心にある祭壇となってゆきました。
古代日本人の中で、
カミを祭る社の中でじーっと祈り続けるのではなく、
自らの意志によって、山という『大自然』に分け入って、
大自然と一体化し、大自然の法則を得て、
自他の幸福を得たいという人間が現れました。
それが、役行者などの行者たちです。
それが『修験道』です。
役行者が開創した行場は全国にあるようです。
あっちこっち開創しながら
「どこに総本山(修験道の教えを継承する為の中心的場所)
を作ったらいいのか?」と、
探っていたのだと推測しています。
で、「吉野・大峰界隈が一番いい!」ということに
なって、その整備を行っていったのだと思います。
ちなみに金峯山寺蔵王堂の山号は
「国軸山」なんだそうです。
「国の軸を成す山」って凄いですよね。
また、天界と地上界を結ぶ軸をなすことを示しているそうです。
役行者は、吉野・大峰界隈が大和国の中で
最も天界からのエネルギー(気)を受けている・受けやすい
もしくは交信しやすいと判断されたのだと思われます。
・・・役行者によって『修験道』が誕生した当時、
断片的にですが、
中国大陸から『仏教』などの外来宗教が
入りはじめていました。
今までよりもよりよい自他の幸福を得る
信仰を確立したいという想いで、
日本古来の『神道』と『仏教』のよいところも
役行者は『修験道』に入れて行かれたのだと思います。
これが所謂『神仏習合』です。
「集合」ではなく「習合」と書くあたり、
成程な。。。と感慨深いです。
「対立せずに『習い合う』」っていいですね。
日本人の「和」の心が、こんなところにも発揮されています。
この『修験道』を開創した役行者の100年後、
弘法大師空海が活躍する時代に入りました。
空海も一時吉野・大峰界隈を修行されたそうです。
だけど、空海は「もっとよいよいものがある」と
青年(放浪)期を経て、唐に行き、真言密教で会得され
やがて高野山を開創されます。
空海が開創された真言密教は仏教寄りの『神仏習合』で、
『修験道』は神道と仏教の丁度真ん中という印象があります。
私は「どっちか」とか「どちらかに寄っている」ことよりも
「どっちも」とか「どっちの要素も含まれている」という
中庸の状態・・・つまり調和が取れている状態が好きです。
(これは私の個人的志向・好みであります)
私がこの『修験道』が好きな理由の一つが
この中庸というスタンスを取っているということです。
陰陽・相反するもの双方が同じだけ有している
ということは、両方の要素を含んでいるので、
ケンカすることも、対立することもありません。
ちまたには、
排他的且つ派閥的な宗教(その多くは新興宗教)が殆どです。
本来、人間を幸福へと導く信仰のはずが、
そこに属していない人間、時と場合によっては
属している人間ですら、人生を不幸へと導いています。
そんな邪教は、時代に淘汰され、消えて逝きます。
あと、この『修験道』が好きな理由は
得度はあっても、出家はないということです。
それを『優婆塞』(うばそく 僧ではない在家の信者)
と呼びます。
『修験道』を開創した役行者は、生涯在家を選択されました。
それが何を意味するかと言いますと、
「日常生活(娑婆の世界)が人生の中心であり、
その生活をよりよくする為に、
山に篭もって荒行をするのですよ」
ということです。
私は山に篭もって修行だけをしている『仙人』は
好きではありません。
荒行で得た悟り(真理・真実)を自分だけのものにし、
たまーに下界(娑婆の世界)に下りて来て、
「おまえはなっとらん!」と、真理・真実を
『人を責め落とし、自分を優位に立たせる道具』にしています。
また一方で、せっかく真理・真実を掴んだのに、
それをアタマだけに留めており、
それを日々の実践(修行)によって、
心に落とし込んでいない・・・真に理解出来ていないのです。
それは正に『片手落ち』という状態であり、
ある種、真理・真実を掴んでいない人間よりも
タチが悪く、罪であります。
『お四国』に行きますと、
歩きとか自転車とかでお遍路し続けている
無職(もしくは定職のない)若い男性と時々出会います。
彼らに話しを伺いますと、
「ずっと『自分探し』をしている」のだと。。。
また都会でバイトし、ちょっと稼いで、
んでまたすぐにお四国に戻って来るのだと。。。
自分が何故、荒行をしているのか?
彼らは全く理解していません。
これは荒行ではなく、
ただの『現実逃避』『生活放棄』であります。
ほんと、お四国(修行)の世界も『ピンキリ』であり、
(歩き)遍路をしている=レベルの高い人間、とは限りません。
私のことも含めまして(笑)、
そのことを肝に銘じて頂ければと思います。
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【「修験道」とは? その概要】
適当羅列してみます。
・吉野&大峰地域にて開創された日本独自の信仰(宗教)で、
7世紀後半に、役行者(えんのぎょうじゃ)が開創されました。
現在各宗派から独立し、金峯山寺蔵王堂は
「金峯山修験本宗」の総本山となっています。
桜の木でその場の象徴『蔵王権現』を彫られたということで、
信仰の象徴として桜(ヤマザクラ)の木を献木する人が多く、
それで吉野山は今でも全国有数の桜の名所になっています。
(現代では、公益財団法人という形で桜の保護をされています)
・修験“道”。華道・柔道・・・これらと同じだと思っています。
身体を磨き高める『技』を通して、
人間の真のあり方を体得する・・・心・魂を磨き高めてゆく、
終わりなき人生の道である。
世に『武術家』は多い。
技(見かけ、外観)ばかり磨き高めようとし、
中身(心、魂)が伴っていない人のことを指す。
我々日本人は、『武術家』ではなく、
その道を魂で究める『武道家』にならなくてはならない。
・「修験道」を行う人を山伏、もしくは「修験者」と呼びます。
我々日本人は、大自然(宇宙)全てを
神仏(絶対的存在)とし、そこに全てを委ね
信仰(信じて仰ぐ)するという生き方を送って来ました。
修験者は、その厳しい大自然に自らの意志で、身を投じ、
拝み、祈り、歩きながら自身の心身(魂)を鍛えると同時に、
大自然(神仏)との融合を目指す道(あり方)です。
・自らを修して、自ら験しを得るところに、その真髄がある。
道を験し、道を修す。
単に験力や神仏の加護を得るだけでなく、
その究極は、自らの心の高まり(菩提心)を得ることに他はない。
自らの身体(体感体得)によって、魂を磨き高めてゆく“あり方”である。
・神道(“カミ(大自然)”の意志に沿った・
心を合わせた生き方・あり方)に「山岳宗教」が加わる。
神道を信仰していた一部の人がより高い・深い悟りを得たいと、
積極的且つ意思的に『山(霊峰』に入って行った。
山での荒行で得た悟り(考え)に更に
外来宗教である「仏教」などが加わる。
「修験道」とは、大きく分けてその3つの信仰(宗教)が融合した
ものではないだろうか。。。
・「修験道」の中心は、「実践性」にある。
『実修実験』:修行を実践し、体験を実現させる・・・
というものである。
だから深山幽谷に分け入って、命がけの修行をし、
霊力・霊験力を覚醒させる道である。
「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって
心の乱れざれば、証果自ら至る」
という役行者のお言葉がありますが、つまり
「その修行の難苦によって、心が乱れないようになれば、
必要なもの“全て”が(観)得ることが出来るようになる。
苦行(苦しみ)に負けない・囚われないようになれば、
心は浄められ、全ての苦しみから解放される」
ということです。
・「修験道」では出家者は存在しません。
役行者は在家主義であり、『真俗一貫』主義者であられました。
在家のまま・俗世にて生活を送りながら、
神道・仏道に叶う生き方を見つけてゆく、
自らを磨き高めてゆく・・・ここに「修験道」の真骨頂が存在する。
・役行者が感得され、仏像化されたのが、
金峯山寺蔵王堂にある、『(金剛)蔵王権現』です。
「権現」とは、権(仮 かり)のお姿で現れた仏(絶対的存在)。
「金剛蔵王」とは、究極不滅の真理を体現し、
あらゆるものを司る王であり、全ての力を包括している。
なおこの金剛蔵王権現は、日本独特の仏(像)であります。
金剛蔵王権現は、三体でワンセットです。(これらが合体した存在)
その三体とは・・・
『過去世』の象徴:釈迦如来(真ん中に位置する)
『現在世』の象徴:千手観音(左に位置する)
『未来世』の象徴:弥勒菩薩(右に位置する)
現在過去未来・・・衆生の三世全てを救済してゆくのが
この蔵王権現の誓願であります。
私の勝手な推測ですが、
何故『過去世』が真ん中に・・・しかも他の二体よりも
若干大きく作られているのか?
それは、人間の『過去世』の罪が、
現在、そして未来の幸福に悪影響を及ぼしまくっている
からなんだと思っています。
自分が生まれる遥か彼方からの過去全て・・・
自分が生まれた後の今までの過去・・・
人間はそんなことまで思い至らず、
今と未来しか見ない傾向にあります。
が、物事全ては『因果応報』でありますので、
今の自分や未来の自分が、そうなっているのかは
その原因・要因は全て『悠久&膨大な過去』にある訳です。
そんなことが真実であり、
そんなことを衆生に知って欲しいからこそ、
真ん中に、少し大きく、
『過去世』の象徴がどん!と
存在するのかなと思いました。
・蔵王権現はとっても怖いお顔をされておられます。
敢えて、憤怒の形相をされておられるその理由は、
悪世の衆生を導くため・・・
何が何でも救いとろうという意志の形(顕われ)であります。
その本地(本来のお姿)は、
無限の過去より衆生を救済しておられる
慈愛に満ちた仏さまなのです。
・蔵王権現は仏像であります。
しかしながら、その仏像は、
大自然・大宇宙の象徴(可視化したもの)であります。
つまり、蔵王権現=大自然・大宇宙そのものであります。
そして自分のも含め、『全ての命』そのものです。
つまり、蔵王権現を拝することは、
全ての・また大いなる命に対して
祈りを捧げるということです。
つまり、「金峯山修験本宗」という宗教法人、
また「金峯山寺蔵王堂」という寺院、そして
「金剛蔵王権現」という仏像に対して、
祈りを捧げているという訳ではないのです。
そのあたり、カンチガイされないようにして頂きたいです。
大なる命、全ての命、そして自分自身の命・・・
現在過去未来全てに祈りを捧げる・・・
ですので、全てを網羅しているのです。
自分が幸せになるように・・・
子孫繁栄しますように・・・
ご先祖さまのご冥福を願う(先祖供養)・・・
真剣にそして正しく祈願すれば、
全てに効いて来る訳です。
そんな実感・確信をだんだんと感じはじめています。
・・・以上が現時点で私がざっくりと把握しております、
修験道の概要であります。
具体的に荒行したらどうなるのか?
その中身についてももっと深めて、文書化したいと思っています。
大峰山は女人禁制ですので、
荒行は『お四国』でさせて頂きます(笑)。
とにかく、知れば知る程、凄い・・・
知れば知る程に、奥が深く、意味不明。。。(^^;)
だけど、何故か心惹かれる、この道。
これからもこの道を歩んで参りたいと思います(ー人ー)☆