伝え方・話し方・・・

伝え方・話し方・・・

つまり自分自身の想い(心)を

的確に他者に伝える能力

『コミュニケーション能力』を磨き高めることは、

この娑婆の世界でよりよく

円満に生きてゆくためには必要不可欠ですが、

“そもそも論”といたしまして、

相手に伝えたい・届けたい自分自身の心が

『無(何も無い状態)』であったり、

『煩悩から発する

(つまり自分だけの快楽や幸福を求める)邪念の心』

であったり・・・

そしてその邪念を隠す為に

『コミュニケーション能力』を悪用して、

自らの邪念を清く正しく美しい念(心)に変換して、

他者に伝えているケースを観かけます。

例を挙げますと、

例えば、営業トークで一つでも多く売ろうとして、

性能を偽って伝えたり、はたまた、

大したオトコやないのに、自分は凄いねんぞ!と、

アルコトナイコト言って

オンナを口説くオトコ等(オトコの哀しい習性・笑)など・・・

ちまたに事例はゴロゴロ存在しています。

つまり真実を伝えるためではなく、

全く逆の虚実真実として伝え、

相手に受け入れられるために、

コテサキのスキル(能力)を得ようと、

多くの人たちが、そちらに傾倒し、

結局、真実を掴んでない上、

例え1%でも虚実(嘘)を発心しているのですから、

その『罪』のせいで、そのような人たちは、

真の幸福を掴むどころか、見えない“蟻地獄”に堕ています。

それに気づいていないのは本人だけです。

蜃気楼のようなは儚き幸福を追い求め

人生終えるのが嫌だと思われる方は・・・

まず、心が無い方の場合、

自分はこの世で何を成すべきか?

真剣に内観し、我が使命感を探り当て覚醒し、

次に『志』という、

一本の我が人生の『大黒柱』を築き上げる

必要があるかと思われます。

その答えを持つのは他者ではなく、自分です。

他者の価値観や思惑に惑わされてはいけません。

が、他者が『鏡』となり、自分の内観が出来ますので、

しかるべき人に相談されると、よいかと思います。

相談する人は間違えないで下さい。

あと、煩悩や邪念が強い人は、

それらを捨てる修業をすべきかと思われます。

煩悩やそれから発する邪念は、

私たちの心の中・・・つまり目には見えなくてしかも、

雲の如く掴みどころがないものですので、

『相関の原理』を使って、

まずは身近にある見えるもの

(使っていない物、余計な人間関係、無意味な思考・・・

過去を後悔し、現在に不足不満を抱き、

未来を憂える等の思考形態)を捨て始めますと、

だんだん善くなって来ますが、

善くなって来るスピードは、

同じことをやっていても違うようです。

スピードが違う理由は、

まずその人の家系(つまりその人の“遠い過去”DNA)に

罪が蓄積されていたり、

そこに誰か・何かの邪念が纏わり付いてますと、

我々子孫のよりよき人生を陰に足を引っ張るようです。

これを解消する・消罪するためには、

生身の身体を持つ私たち子孫が、

清く正しく美しい、幸せな人生を、

ご先祖さまと一緒に『同行二人』で

歩ませて頂いているということを意識・感謝しながら、

生きてゆくしかありません。

もちろん、仏壇やお墓に手を合わせたり、

お寺参りすることは『先祖供養』に

ダイレクトに繋がるので、いいかと思います。

・・・私の主観的なイメージですが、

神社は我々生きている人間が、

何かを成し遂げるために、誓いを立てるべく、

ダイレクトに祈りに行き、

神の絶対的な力(他力本願)を頂こうとする場所で、

お寺(お墓・仏壇含む)は、

先祖の供養を通して(つまり『先祖供養』

・・・先祖が成し遂げられなかったあらゆる徳積みや消罪)、

神仏という、大宇宙・大自然のもとへと繋がり、

誓いを立てるべく、祈りを捧げることにより、

神仏に加え先祖の“御陰様の力”を借りて、

幸福を得ようとする場所なんだと思っています。

日本には『神仏習合』という概念があり、

神(神社)と仏(お寺)に優劣はなく、

“ニコイチ”で相関関係にあると私は観ています。

つまり両方共に必要だから存在し続けているのです。

日本にはあらゆる神社があり、

あらゆる仏教の宗派・お寺がありますが、

これは、我々人間には個性があり、

その個性や、その人が成し遂げるべき使命によって、

必要な神社仏閣(神仏)が変わって来るからなんだと観ています。

なお明治時代以降に創設された、

いわゆる『新興宗教』は、

まだ時代の“ふるい”に余りかけられていないので、

私の考える上記宗教から除外いたします。

神道や仏教が我が国で

1000年以上も残り続けている理由は、

時代や人間の価値観を越えた『真理』があるからです。

従って、神社がいい・お寺はアカンとか、

どのお寺がいい・アカンとかは、

神仏習合の概念から致しますと

片手落ちの虚実であります。

大局的に観ていい場所はずっと残ってゆくし、

アカン場所は時代によって淘汰されてゆくのです。

たった80年程しか生きない未熟な人間の価値観(主観)でもって、

真理真実な存在の歪曲や判断をしないで頂きたい。

そんな虚実をまくし立てる罪な人間には、

真の神仏からの救済(他力本願)は与えられません。

真実は我々人間の思惟を越えたところにあり、

全て『おまかせ』であります。

我々人間が自らの意思で決断し、変えられること・・・

また我々人間が掴める真実は、

ほんの、ほんの一部であります。

人間は大自然の絶対的支配者ではなく、

一部であります。

人間が傲慢になったから、地球や時代(大自然)が怒って、

人間の力ではどうしようも出来ない問題を

次から次へと引き起こし、

その真実に気付かせようとしているのです。

まだそのことに気づいていない人(日本人)は多いので、

更なる問題が、近いうちに我々日本人にまた襲いかかるでしょう。

仕方がありません・・・。

私は粛々とその準備と心構え(覚悟)だけしております。

・・・話しそれましたが、

あとよくなるスピードが違う理由は、その人にあり、

その人が生まれてから

今までの罪と徳の量によって変わって来るようです。

そして何より重要なのは、

その人が『徳積み・消罪』する“心構え”です。

例えば、徳積みしようとして、毎日墓参りに行くとします。

毎日毎日墓を磨いていても、磨きながら

『これで私の人生もバラ色や』などなど、

邪念の心のまま・・・真心込めて、

報恩感謝の境地に達する努力をしなければ、

何年墓磨きをやっても、

何も変わらないどころが、時間の無駄・・・罪であります。

この娑婆の世界での二つの罠は

『意識的また無意識に罪を作ること』と、

『徳積み・消罪している“つもり”になっていること』

であろうかと思います。

“つもり”なので、やっている本人だけが、

出来ていると勘違いしているだけで、

真実からしますと実際は出来ていないので、

その人がその間違いに気付かない限りは、

永遠に真の善の道・幸福へは向かってゆきません。

私自身、いつもそんなことを意識・確認しながら、

曲りなりに・・・日々の修業に励んでおります(^人^)☆