「霊峰石鎚山 石鎚神社 お山開き ライブビデオ(完全版)」

最初は全然違う動画(観音経の読経の動画)を

インターネット上で探していたのですが、

何故か「あなたにおすすめ」と出て来たのが・・・

「霊峰石鎚山 石鎚神社 お山開き ライブビデオ(完全版)」

https://www.youtube.com/watch?v=kAKADWwt_wg

思わず19分間、見入ってしまいました(笑)。

私は、大峰山、そしてこの石鎚山も行場として開かれ、

修験道の開祖であられます役行者が好きで、

(っていうか、好きという動詞では表現し切れない

1300年の時空を超えた『永遠の師匠』であります)

とにかく、役行者やその100年後の登場した真言密教の開祖

弘法大師空海の『後追い』をすべく、

大峰界隈並びに四国界隈を修行しに回っております。

人としての真理を時空を越え、

我々現代人に熱い炎のように、照らし続けるそのお姿は、

身はとうの昔に消え果てても、祈り(念)は遺り続け、

千数百年経った今でも色焦ることなく・・・

逆に鮮烈に光を放ち続け、我々の心を、

そして未来を照らし続けて下さっています。

石槌山に登るためには、鎖を伝って登るところがあり、

その行場を「鎖禅定」と呼ぶそうです。

鎖は『男の命の禊場所』なんだそうで、

そこで、邪念を捨てて無我の境地を得るのだそうです。

(きっと邪念が強く、おまけに悪霊もこびりついて、神が嫌う穢れ切った人間は

ここで堕ちるか、登る気が失せて、登れないのではないでしょうか)

奈良・大峰山の「西の覗き」もそうですが、

この「鎖禅定」の場を怖いとコッソリ思う男性は多いそうですが、

私は、萌え〜♪の一言であり、行きたくてますますウズウズし、

是非今年中に体験したいと思ってしまいます(笑)。

っていうか、

そもそもこれ(明らかに一歩間違えば死にそうな行場)を「怖い」と思う人は、

神、そして自分自身に対して何らかの「負い目」や

「不信感」から発する『恐怖心』があるからであります。

つまり、何らかの歪みや弱き部分が、心にあるのです。

まずはそのことに気づき、

己自身の弱き心や、歪んでいる心に真剣に向き合い、

それを正してゆくという覚悟を決めなければ、

行というものは正しくまっすぐに進んで行かず、

自身の『願』が成就していきません。

無駄に時を過ごすか、怪我や疲れだけを背負って帰るだけであります。

(最悪の場合、行場で死んでしまいます)

神、そして自分自身に対して全面的且つ絶対的な信頼・・・

つまり「オマカセ精神」があれば、怖さは一切消えて無くなります。

その怖さは己自身の間違った心が作り上げた感情であり、

妄想であるということに気づく訳です。

人間、死ぬ時はいつか必ず、一回だけ来るのです。

それがたまたま、鎖を伝って石鎚を登っている時かも

知れない・・・ということだけであります。

この動画を見て、何故か感涙。。。

「1300年以上もこの伝統(石鎚山信仰)が、ちゃんと

続いているねんなぁ・・・」という深い感動がありました。

そこで気づいたこと。

それは

「我々人間は、『かわる』ことによって

『かわらない』という術〜叡智〜を身につけた」

ということです。

この「お山開き」をやっている人は、

毎年変わっていきますが、

だけど、やっていること、そして祭りを通して、得られる境地

つまり我々人間(万人)が目指すべき境地に達する・近づくという

祭り事を通して得られることは永遠に変わらないということです。

人間は、

「生まれ、死んでゆく 生まれ、変わってゆく」

ということを引き換えに、

「人間の根本・本質は永遠に変わらない」、また

「人間はいい方向に生成発展してゆく」 という術を身につけたのです。

千年、一万年・・・うん億年スパンで人間を静かに観察してみますと、

人の生と死というものは、果てしなく小さいものであり、

そして、果てしなく尊いものであるということに気づいた次第です。