一つの『遍路転がし』を登り切る。〜“峠(岐路)”に立つ〜

娑婆(日時生活の場)で

セカセカと忙しく生きている中でも、

時々『お四国』で修業をしていた時を思い出します。

ここ一ヶ月程、

『気枯れ状態』から脱することが出来ずに、

虚脱感や心の葛藤がありましたが、

ようやくそこから抜け出して、

『元の状態(元の気、元気)』に戻ったという、

ある種の手応えがあります。

今、お四国の『遍路転がし(急な山道、難所)』の

『峠』に立っている心境と同じです。

だから私は『お四国』を思い出しました。

四国の歩き遍路の道は、全長約1300キロあり、

様々な『遍路転がし』という難所

(=苦難の機会)が点在します。

その難所を手前から眺める度に

『うわー、大変そう!』と気が参ったり、

歩くのを止めたくなったりしましたが、

そんな心境であっても、

前向きにそしてマイペースで歩を進めておりますと、

いつか必ず、峠に到着し、素晴らしい眺めとともに、

修業(人生そのもの)の達成感と幸福感、

そして未来への無限の可能性・・・

『希望』というものを見出だすことが出来ます。

ですので、最後・香川県の方の難所は

「よし、この難所を乗り越えれたら、また更に自分が成長出来る!」と

チャレンジ精神旺盛で、

ハリキッテ☆登っていたいたことを思い出します。

希望・ドリームというものは、

子どもは別として、他者から与えられるものではなく、

自らに与えられた『苦難』の先に見出だすものであり、

自らの手で希望の先『幸福』への道を創造してゆくものであり、

その過程や結果そのものが、修業であり、

人生そのものであると考えています。

またその希望やゴールにある幸福を、

自分以外の他者に及ぼしたり与えたり、共有してゆくということも、

人生修業における苦難が増す分、幸福も増してゆきます。

また、一つ一つ峠を体験し、乗り越えますと、

だんだん私が成長・・・『進化と深化』が体験出来(観得)ます。

この進化と深化の体験・実感こそが、

人生における・この娑婆の世界で体感出来る、

最も崇高で、魂の観点からの

最もレベルの高い『達成・幸福感』だという確信が、

今の私にはあります。

この娑婆では、

たくさんの種類の幸福という名前の

快楽という感情を体験することが出来ますが、

私にとっては上記の幸福快楽が最高位に有ります。

(っていうか、同系列ではなく『別次元』に存在するものです)

食欲・睡眠欲・性欲・物欲等を満たした時の快楽、

誰かから存在を認められたり、名誉を讃えられたり・・・

そのような物質的且つ個人的範囲内の

快楽の充足のレベルではありません。

それらのカテゴリーに属する幸福快楽は、

「苦の多い人生修行(娑婆)を楽しく生きる為の

一瞬の儚き快楽、所謂『オプション』の一つ」

だという認識を、私は持っております。

それらは娑婆の麻薬のようなもので、

欲すれば欲する程、また手に入れれば手に入れれる程、

「もっと欲しい」と不足不満に陥り、地獄に落ちて逝きます。

知らずは本人のみであります。

南無阿弥陀仏。

つまり、上記の物質的且つ個人的幸福快楽は、

人生の砂糖やスパイスのような通過点や手段のようなものであり、

それを得るために私たち人間は生きている訳ではない・・・

それらを得るのが「人生の目的」ではないと、私は捉えております。

従いまして、そのような表面上の儚き、娑婆の快楽は求めてはおりません。

(自然にやって来るものは大歓迎ですが、自らの意思で追いかけてはおりません)

真理に目醒め、

大自然の流れ・法則にそれに基づいた・沿った道を進みながら、

自らが探求する道の過程に存在する進化・深化を、

一つ一つ確実に達成して行くことこそが、

私に与えられた人生の幸福の追求であります。

誰が何と言おうとも、

誰かが個人的な価値観や個人的快楽・幸福を私に押し付けたり、

強要して来ようが、私はこの自らの主義主張を変えるつもりはありません。

ここではっきりと宣言させて頂きます。

生き仏のような、神性をお持ちの方々のご意見は、

これからもすなおに受け入れ反省懺悔し、

自らの心を精進するための糧にさせていただきますが、

煩悩まみれの動物的な人間(輩)の価値観は断固として跳ね返し、

一切受け入れません(っていうか、私の人生の周りからそんな輩を消します)。

この辺りの線引きを、

今後更に明確化して行くことにいたします。

(自分の心身を守るためと、与えられた真の人生を

より早く効率よく歩むためです)

私はこの38年間の人生で・・・

また我々日本(地球)人のあらゆるDNAを内在している私たち人間は

無限の過去からいろんなことを体験し(苦難と幸福)、

いろんな事象や人との出会いにより、

上記のような価値観を確立をし、人生を選択し、築きあげて来ました。

従いまして私は、

上記の価値観・人生に合わない人や組織や事象とは

40歳までに断絶したり、最小限の縁にしてゆきます。

そして、私のこの娑婆での人生修業が終わる日を見据え、

私がこの人生で一体何を成し遂げるべきなのか?

もっともっと高くそして深く考え、

人生の目的や意義に向かって・・・

例えゆっくりであっても確実に

真っ直ぐ歩んで参りたいと考えています。

・・・今、町のあちらこちらに、

また我が家の庭にも彼岸花が美しく咲いております。

彼岸花に対する、価値観(捉え方)はみなさんそれぞれ

違うかと思われますが、私は・・・

彼岸花とは先祖に捧げる供養の花であり、

即ち私たちに捧げられたる花。

そして、『三途の川』をまたいで、2つの川端を繋ぐ花。

のような気がしています。

諸行無常。

今は猛(たけ)き者も、ついに(いつか)は滅びぬ。

死んで逝くのです。

我々先祖のように、必ずいつか、三途の川の向こう岸に逝く・・・

そんなことを、教えてくれる花であります。

私たち人間は、生まれる時は泣いてこの世に誕生し、

多くの人が死ぬ時、大なり小なり「痛い」「しんどい」とか言いながら

苦しんで逝き、周りの人は「かわいそう」「死なないで欲しい」と泣いています。

だから生まれる時も泣いて苦しい・・・

そして死ぬ時・あの世に行くことは

悲しい・苦しいという印象が強烈にあります。

(実際は、あの世の方が歓喜に満ちて苦難はなく、

幸福しかないような気が、何となくいたします)

人間が持つ最大且つ最強の欲求は「生きたい」と思う

「生命欲」のようです。

この欲があるから、私たちは生き続けられるのですが、

生命は有限であり、いくらその欲望が深くても高くても

天寿が終われば、三途の川を渡らなければなりません。

古今東西、だれも生き続けた人間は存在しておりません。

だから、その生命欲という最大最強の欲を

捨てられない限りは、

葛藤し、もがき苦しみながら、「死にたくない」と叫びながら

あの世に逝かなければならないようです。

だけど、真に潔く、

人生の達人と呼ばれる方々を見聞きしておりますと、

生き方も、そして逝き方も潔い。

死期が目前に迫っていても、明るい、心が澄み切っている。

死期をじーっと、朗らかに待っているという感じです。

お四国では、高齢者の方々をたくさんお見かけいたします。

「いつ『お迎え』が来てもいいように、

お参りをしながら、死に装束を揃えています。

死に逝く準備をしています。だからいつ死んでも大丈夫です(^0^)」と

お棺に入れる、あらゆるお四国グッズを何周もお参りしながら

準備しまくっている高齢者の方々程、なかなかお迎えが来ないようです(笑)。

死ぬ準備(心構え含む)を朗らかに楽しくすること・・・

つまり残り限られた人生を、感謝の心で持って、

楽しく謙虚にすなおに生きることが、

長寿(元気で長生きする)秘訣のようです。

「『生命欲(=命)』すら捨てる」

・・・人生の究極の幸福(達成感や安寧)とは、

何かを得ることではなく、

喜んで『捨てる』『捨て切る』方に存在するのではないか?

最近は、そのように感じています。

まずは「人間はいつか死ぬのである」とはっきり認識した上で、

死期が目前に迫っても「まだ死にたくない」ともがき苦しんだまま

あの世に行くのではなく(まさに生き地獄)、

死期を悟れば、人生の後始末をきちっとして、

心穏やか・朗らかに・・・まさに平安で、

「さようなら」を人生最高の笑顔(とらわれない、赤子の心の如く)で

この娑婆を去って逝きたいと思います。

「赤子の心で始まり、赤子の心で終わる」

そんな人生って、最高だと思いませんか?

間はいろいろあっていいじゃないですか、

だって、人生って、そんなもんでしょ。

何もない人生って、あり得ませんし、

逆に行きている意味・人生修業する意味がありません(笑)。

最近はそのように思っているので、

一日一生、今を大切に、一つ一つ苦難(幸福)と

その裏表にある幸福(成長、進化と深化)をかみしめて、

価値観や人生の意義、方向性を共有出来る仲間と共に、

この与えられた人生を全うして参りたいです。

そのような人生を歩むことが、

ご先祖様の最大且つ最強の供養となり、

それが見えないところでベース(礎)となって、

神仏(森羅万象)から応援(ご縁)を頂き、

私の人生をよりよくして行くんだと思います。

ベースは清く正しい自力本願(発顕)。

そこに他力本願という神風が吹いて参ります(還元)。

ご先祖様と私たち今を生きる人間は一本の川の如く、

同じものであります。

そのつながりを忘れることなく、

この秋もこの冬も日々謙虚に過ごして参ります。

合掌(ー人ー)☆

【今日の俳句】

秋風が 川端つなぐ 彼岸花