「オオミネ」はもう一人の私

やっと・・・

やっと来ることが出来ました。

今、奈良・吉野の大峰山の麓「洞川温泉」におります。

今回も、よしこちゃんの定宿

「温泉・名水の宿紀の国屋甚八」さんで泊まっています。

http://www.kinokuniyajinpachi.com/index2.html

この紀の国屋甚八さんの良さは・・・

①古い・汚いではなく、歴史ある旅館で何だかレトロで落ち着く

(つまり、古いながらに洗練されているということです)

②チェックインが正午から、チェックアウトが正午までOK。

つまり、MAX24時間滞在出来る。

③いつも泊まる部屋が、洞川温泉のメイン通り「行者通り」に面していて、

そこから通りの風景を眺めるのがいい。

(しかもT字路なので、龍泉寺に行く別の道もよく見える)

やっぱり奥まった僻地の旅館ではなく、行者通りに面している方が

人の営みがよく分かり、そして清々しい。

④お宿の半露天風呂も、24時間いつでも入ることが出来る。

(しかも夕方の数時間以外貸し切りOK)

更にその温泉の温度が41度くらいで、個人的に丁度いい。

⑤インターネットの高速無線LANが部屋の中で使える♪

⑥年数回は泊まりに来るので、

ご主人さんも私のことを分かってくれていて、

あれこれ機転&融通が効く。

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今朝、奈良に向かう国道25号線を走る。。。

ほぼ渋滞なくスムーズ。

一方、逆方向・大阪市内に向かう方は

各所で渋滞が起こっていました。

普段(娑婆)の私は、その渋滞に巻き込まれたり、

抜け道を探してコチョコチョ動いたり、

なるべく渋滞の時間帯には

運転をしないようにと気を配っています。

渋滞の方ではなく、

今朝のように、スムーズに流れる方を進むのは、

精神的にとっても清々しくて爽快感があり、

開放感やちょっとした優越感もあります(笑)。

このような娑婆での人間の情事は、

ひたすら何らかの『もの』を得たいと思い、

その情念が、行動を促し、このような渋滞などの

「動き」・「現象」が現れて来ます。

何かを得たいと思い、何かを得ようと突き進むのが、

娑婆での修行の方向性であります。

一方、お四国や大峰山に代表される

人里離れた霊峰での修行は

上記と全く逆方向の修行の方向性であります。

つまり、何かを得ようと思い、そして何かを捨てることにより、

その欲するものを得るということであります。

この霊峰での修行の最も且つ唯一捨てる「もの」、

それが「命」(時間、気)なんだと私は考えています。

一度死んだつもりで修行する。

もう一度やり直す・生まれ変わる気持ちで修行する。

全てを捨てる・・・自らを今を生きる人間たらしめている

「命」を捨てるという気概で持って修行をする・・・

そのような我捨(シャガ)の境地が

自らが欲するもの全ての幸福を一挙に手に入れることが出来る

唯一無二の『手法(=秘法)』なのではないか・・・?

私は、密かにそのような仮説を立てながら、

日々各種の人生修行項目をこなしながら、

その仮説の確証の機会を探っております。

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以上のようなことを考えながら、車を運転していました。

ぼけーっと運転しながら、あれこれと思い浮かぶことを考え

それを深めてゆくのは、とっても気分がいいです。

最近思うことがあります。

「人は何故、物や事、人を欲するのか?」

だけど面白いもので、

人により、欲するものが違います。

例えば、男性のAさんは、女性のBさんを欲し、

男性のCさんは、別女性のDさんを欲したりしています。

女性のBさんは、好きで肉ばかり食べていますが、

女性のDさんは、魚ばかり食べています。

人が何かを欲する時・・・

その直前に「不足不満」という想念を抱いているかと思います。

不安・不満だから所有したい、

もしくは所有されたいと思うのでではないでしょうか。

イメージするならば、満月の状態が、満足の状態で、

不足不満の欲する状態が、三日月や半月のような

心の状態です。

月が欠けていて、不満・不安という感じです。

満月の状態で安心・満足という状態です。

が、残りの8割か5割かの月(心)の欠けた部分を

人によって補おうとする物質や現象、他者が違います。

それが、その人の価値観や性格、DNAなどによって

複雑に決められているのではないでしょうか?

また、その欲するものは。

その人が与えられた人生の道(娑婆修行)の過程で

必要なアイテムであったり、事象であったり、

人間なのではないでしょうか?

この娑婆には一人として同じ人間はおらず、

一人として同じ価値観を持って、

同じ人生を歩んでいる人は存在しません。

つまり、この娑婆は役割分担で

一人ひとり、使命・役割が違って、

みんながそれぞれ補い合って生きているのではないでしょうか?

そんな生き方が調和した状態を

私たち大和民族は「和」というのではないでしょうか。

私の場合、

私の心も、みなさんと同じように、

半月か三日月のようになっているのが、

自分が足らない・欲しいというものが、娑婆にはないのです。

娑婆にいても、底なしの「不足不満」の蟻地獄にいる感じで、

気分は常に空気のない水槽の上部でパクパクしている

金魚のような気分です。

おかげさまで随分空気が薄い水槽でも生きてゆけるようになりましたが、

やっぱり、何か虚しさ・諸行無常を感じてしまいます。

私が欲する、残りのお月様が存在するのが、

大峰であり、お四国であるような気がするのです。

これは理屈ではないし、

人に強要された価値観でもなく、

自然とそう思い、確信に至った次第です。

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・・・私は生物学上また戸籍上女性ですので、

大峰山へは登拝出来ませんが、

わざわざ登拝しなくても、

ここでじっとしているだけで心身は柔らかく、

魂が凛!として来て、

『何が』が鮮烈に高まって行きます。

お四国での歩く修行が「動」であるならば、

この洞川並びに吉野山でのお篭もり修行は

「静」の修行であります。

今日来て感じたことは、

“「オオミネ(大峰)」はもう一人の私”だということです。

私のお月様の片割れは『大峰山』なのです。

ここで言う『大峰山』とは、

山という大きな物質でもなく、

修験道という一つの宗教のジャンルでもなく、

もっと枠に囚われない、言葉では表現仕切れない

無限に広がる『何か』であります。

『大峰山』という言葉や山の名称は、

あくまで象徴であり、その『何か』をざっくり差す

単なる言葉であります。

言葉という言語化(見える化)することにより、

私が感じている無限の『何か』が一気にちっちゃく

有限なものになってしまいますので、

私は敢えてここで『無限の何か』という表現に

留めておこうと思います。

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大峰での私と、娑婆の私。。。

どちらが「主」(陰)で

どちらが従(陽)かと申しますと、

大峰に存在する私が「主」であり、

娑婆にいる私が「従」であります。

「主」が求めていることは何か?

それは「真理・真実」の探求であります。

それに沿った人生の顕現が

今回の人生で与えられたミッションなのです、きっと。

だけど、それがなかなか上手くはいきません。

上手く行かないのが修行、即ち人生そのものかと思われます。

ほんと、この大峰に来ますと、

自分の無限の可能性を信じて疑わないのですが、

娑婆におりますと、自分がだんだんとアカン人間で、

おかしな(変わった)人間に思えて来て、

自分らしさを発揮出来ず、心のどこかで常に葛藤していますが、

だんだんと40歳にも近づいて来て、

だんだんと、娑婆でも自分らしく生きるという『術』が

おかげさまで身について来ました。

その『術』が、何回も書かせて頂いております

喜んであっさりと「捨てる」「捨てきる」ということです。

とにかくあらゆる不要なもの(物質、人間関係、情念)や、

優先順位の低いものを捨て、

本当にしなければならないもの(使命感)と

本当にしたいもの(欲するもの)に一点集中するということです。

おかげさまで、それは着実に実践し、歩を進めております。

あと、最近実践し始めたことは、

自分には大義があれば、相手が誰であっても絶対に曲げない。

逆に自分に大義がないと分かった瞬間に、

自らの全ての雑念を捨てて謝罪し、

方向転換するということです。

自らが間違っていると分かった瞬間に、

自分の想念を喜んで&あっさり捨てるという実践です。

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そんなかんだで、もう夜になりました。

定宿の向かいのお宿には大阪から

ワンサカと小学生が泊まっていて、ワイワイ!

ものすごくうるさいです!

100人はいるのではないでしょうか(^^;)?

夜はバーベキューに肝試しに・・・とお宿の外で

あれこれエンジョイしているようです。

小学生の間に、この大峰の素晴らしさを知って頂いて、

本当に嬉しいです。。。が、

連れて来られている学校の先生は、大変そうですヮ(^^;)。

さ、今日は早く寝て、明日朝から

もうひと頑張り、お仕事がんばってこないます(^0^)!!