「客観的事実に【感情】を入れない」
別の日本語で表現しますと、
「ありのままの真実に【我(独自の価値観)】を入れない」
ということでしょうか。。。?
『お四国』に自らの心身を置くと、
日常生活では見え辛い“いろんなこと”が観得て来ます。
お四国にいると、
【自分は何と未熟者だ、何も知らない(無知)で愚か者(愚者)なんや】
ということに気づきます。
修行をすればする程、レベルが上がれば上がる程、
何と自分は出来ていない・まだまだアカンねんや〜!って
気づいてゆきます。
(だけど、悲観&感情的になる訳ではなく、
客観的に「ありのままの状態が」観得て来て
どんどん冷静に捉えることが出来て来るという感じです)
今回更に深く気づいたこと、
それは「無知で愚か者だという認識に【マイナスの感情】を入れない・・・
あくまで客観的事実として、粛々と受け止めて、
それを今から始まる【自分改革】という名前の
【前向きなエネルギー】に変換してゆく」ということ。
過去のあらゆる選択や失敗・・・
それらを今思い出される時、
その殆どから得られる感情は
【後悔、嘆き、憂え、自他に向かう怒り等のマイナス感情】であります。
どうやら人間という存在は、
これらのマイナス感情に心が囚われている限りは、
真の精進・幸福へと続く精進の道を歩めないようです。
それは何故か?
マイナス感情は、人間の言動にブレーキをかけるのです。
人間は自らの過去(過去の時間、命は自らがこの娑婆で生きた証であり、
【自分自身そのもの】であります)
人間は自分自身に不信感(マイナス感情)を抱き、
それに囚われば囚われる程に、心にブレーキがかかり、
前に向かうことが出来ません。
だから、いつまで経ってもその苦難・生き地獄から抜け出せないし、
その多くは状況が悪化してゆきます。
私たちが今生きるこの娑婆は「諸行無常」で、
早い・遅い時もありますが、常に動いております。
分かりやすい例えは、
下りに向かっているエスカレーターの上で、
歩いて上っているようなものです。
だから疲れや怠慢、無知などにより
何も努力・精進しなければ(立ち止まれば)、
勝手にどんどん下がり、地獄に堕ちます。
また一方で、「何もしない」のではなく、
「何等かの動きはしているにもかかわらず、
その動きが間違って、地獄に堕ちている」という時もあります。
例えるならば、人生の下りエスカレーターで、
自らの足もまた下りに向かって歩いているというパターンです。
身辺でそんな人を見かければ、
状況によっては「歩く向きが反対よ」と助言するのですが、
わざわざこちらのエネルギー(気)を使って
お伝えしているにもかかわらず、受け入れられず、
いよいよドツボにハマり、
とこかに消えてしまった人がちょこちょこ存在いたします。
そのような人に共通することは、
まず【過信(傲慢)が強い】という、不信と相反するパターンです。
「俺の言うことは正しい、他人が言うことは間違っている」
極論申しますと、そんな思考形態を持っています。
次に、不信感が強すぎて不安感に苛まれて、
正しい物事の判断が出来ず、それで失敗を重ね、
ドツボの地獄に堕ちるパターン。
そして、ただ単に知的な能力や自他の経験から得られる智恵
(自身が持つものや他人から学んだもの)、
が欠如しているか・・・
大きく分けてこの3パターン存在する
ような気がいたします。
他人の経験・智恵の話しが出ましたが、
それを物に例えるならば、
お遍路で例えるならば「金剛杖」のようです。
歩き遍路を一人でしておりまして、
しんどくなり「もうアカン」と前に倒れかかった時、
支えてくれたのがこの金剛杖です。
「人」という漢字の右から支える短いハライが、
自分以外の他人・他者の存在【御蔭様】
なのでないでしょうか。
自分自身の人生の遍路道を歩けるのは、
自分自身のみであります。
人生の幸福もそして苦しみを味わう主人公は
己自身であります。
ただ、未来を示す指導者や今を共に歩む仲間は
自らの人生の金剛杖となり、
自らの人生を陰で支えるて下さるのです。
その【御蔭様】の感謝の気持ちを心の中心・太陽の如く、
常に燃やし続けながら
また自分自身が誰か・何かの金剛杖(御蔭様の力)
となることが出来れば、
この娑婆は、まるで地球が丸いのと同じで、
全てがまあるく収まり、
【和】の世界になってゆくのではないのでしょうか。