吉備の国・岡山旅。〜その④:夜の岡山をマンキツ♪〜

19日の夜も更け・・・

地元八尾の商工会議所青年部の先輩方と、

1次会、2次会、3次会・・・と、

夜中1時半頃まで、飲み歩いておりました

(って私はいつもウーロン茶ですが・笑)。

ほんと・・・

「女子でしかもお酒飲まないのに、よく付き合っているねぇ〜」と

いつも言われますが(更に笑)、

これが結構楽しくて、

しかも『THE 娑婆』って感じで、

結構あれこれ娑婆勉強出来るんデス

(具体的内容は、ちょっと?かなり?ヤバイんで、

完全未公開です^^;また更に笑)♪

特に“おねえちゃん”のいるお店での楽しみ方は

先輩方と私は違う部分もありますが、

みなさんの『本音トーク』が聞けて、

まさに腹割って楽しくお話出来るということが、

最大の魅力ではないでしょうか。

ほんと、本音と建前、真実と虚実の狭間で

もがき苦しむ私達人間の人生の中のつかの間の

「息(ガス)抜きの時間〜オアシス〜」の一つとして、

古今東西、こんな感じで気心知れた仲間たちと

夜な夜なワイワイするのも、

これまた一つの人生というものの、

醍醐味ではないでしょうかぁ(^^)?

この夜の繁華街と、

私が日頃足を運ぶ大峰やお四国のような「霊峰(霊場)」って

一見真逆の世界のように見えて、

実は根本的に同じじゃないんかな?って感じています。

どちらにも共通することは、

『人間の本質(性)があからさまに観得る・観得やすい本音の場所』

ということです。

人間は建前や見栄という鎧を被っている間は、

「わがままな状態・すなおで無い状態」であり、

真理・真実というものを自らの心に

取り入れられない状態なんだと思います。

ですので、夜の繁華街や霊峰という本音(地)が出てくる場所で、

いろんな経験を踏み、いろんなことを正しく学ぶ程に、

すなおにいろんなことが自分の心に入って来て、

『真の幸福』に近づけるのではないか?と思っています。

(これはあくまで私の仮説です)

ですので、夜の繁華街が「悪」で、霊峰が「善」とも限りません。

場所や環境が絶対的な善OR悪ではなくって、

その人その人、またその時々によって、善と悪が変わり、

またそれらの度合いが変わっていくものなんだと感じております。

分かりやすい事例を申しますと、

夜の繁華街にも、仏様のような素晴らしい方もおられるし、

霊峰にも修行者のクセして悪魔のような人間の存在します。

場所の問題ではなく、人それぞれの問題であります。

人間は天使と悪魔、美しい仏心と醜い心・・・

陰陽両方を併せ持つ存在であり、

その狭間でもがき続けることが即ち人生修業の根本要素であり、

少しでも仏心の方に心(魂)を

磨き上げて行くことが精進という行為であり、

悟り(真の幸福への境地)への唯一無二の道なんだと思います。

その道を歩むためには、まずはわがままを捨て、

すなおに還ることが必要のようです。

(ま、それがなかなか出来ないのが、

これまた私たち愚かな人間の性なのですがネーー;★)