吉備の国・岡山旅。〜その⑥:『山田方谷』マンキツ♪〜

先日岡山旅に行きましたが、

その中で最も感動したのが

“山田方谷”との出会いです(^^)♪

山田方谷(やまだほうこく 1805〜1877)は、

江戸時代末期から明治時代初期に、

備中松山藩(現在の岡山県高梁市)を中心に活躍した

歴史的人物〜経世家・教育者・陽明学者〜で、

平成の世になっても備中界隈だけでなく

岡山県民の尊敬を集めており、

かつて方谷が作った“長瀬塾”跡に出来た

「方谷駅」というJR線の駅があったり、

山田方谷を主人公とした

NHK大河ドラマを誘致されようと動かれています。

山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家でしたが、

方谷が生まれるころは百姓として生計を立てていたそうです。

山田方谷の父親は百姓の傍ら油屋を営んでおり、

庄屋に次ぐ地位である“長百姓(おさびゃくしょう)”でした。

方谷は幼少時から“神童”と呼ばれる秀才で、

5歳の時に備中一の儒学者の塾に入門しました。

そこでみるみる頭角を現し、

9歳の時に何故学問をしているのか問われた際、

『治国平天下(ちこくへいてんか)』

(『大学』にある言葉で、「国を治めて天下を平らにする」という意味)

と即答したとのこと。。。☆

そんな有能な山田方谷は、

やがて二十二歳だった備中松山藩の藩主となった

板倉勝静(徳川吉宗の玄孫)の教育担当になり、

そして板倉勝静の下で、藩政改革を断行し、大きな成功を収め、

勝静が江戸幕府の老中となると、勝静の“政治顧問”として

江戸幕府最末期の幕政にも関与しました。

方谷が藩制改革の基本に置いたのは

「至誠惻怛(しせいそくだつ)」の精神。

至誠とは誠意、惻怛とは、思いやる心。

目上に誠を尽くし、目下に慈しむことの徹底的実践です。

また多くの子弟を教え、

越後長岡藩(現在の新潟県)を立て直した河井継之助などの

他藩から教えを請いに来る人もいました。

明治維新を境に教育者として、後進の教育に専念し、

世に出ることは拒み続けたとのことですが、

その思想や手法、そして人材は明治時代の大きな財産として遺されました。

詳しくは・・・(参考までに^^♪)

http://www2e.biglobe.ne.jp/fujimoto/taka/yamada.htm

http://bizgate.nikkei.co.jp/series/006990/index.html

・・・ほんと、山田方谷の人生を徹底研究すれば、

今の日本国家の問題解決方法が

観得て来るのではないでしょうか。

ただ、山田方谷のような論者はいても、

山田方谷のような実践者がいないのが、

この国の哀れな現実なのかも知れませんね。

正しい論理(知性)、正しい実践(行動)、

そして全てを敬い、包み込む愛(感性・霊性)、

この3つが揃って調和している人物でないと、

真の改革者ではなさそうです。

ほんと・・・

答えは「未来」にあるのではなく、「過去」にあるんですね。

私の母方の祖母の家系が育まれた・・・

私の4分の1のルーツである備中高梁にて、

本当によい出会い・気づきをいただきました(^人^)☆

<備中松山城のA1ポスター、頂きましたぁ♪>