おかげさまで、今回も予定通り無事に
お遍路し終えました(^人^)☆
・・・もしもこの世に「神」や「仏」という絶対的存在が、
どこかにいるのならば・・・それは「どこか」ではなく、
この世全てに、その存在が、
いっぱい満たされているのではないか?
ふっと、そんな風に感じました。
地球という箱の中いっぱいに満たされているという感じです。
そのあり様は、例えるならば「空気」のようで・・・
見えていないけど確実に存在している
(空気・酸素があるから、
今私たちは呼吸出来て生きていられるのです)という感じです。
美しい花(植物)や仏像(物)から、
納経所の前で人間に一切警戒せずに爆睡している
動物のネコちゃん(笑)、
そして人間である私自身にも、
その存在がいっぱい満たされているから、
今こうしてこの世で生きている・・・
【生かされている】のだと感じました。
そこまで思い至りますと、
人間も生物もみんな『神&仏の子』であり、
兄弟になりますよね。
「人類みな兄弟」という言葉の意味が、
ストン☆と心に落ちました。
・・・三連休の間も、
“お大師さん”の御加護(お蔭の力)を得たいと、
何かの願をかけて必死でお四国を
お参りされている方々を多く見かけました。
手を合わせる、一つの手はお大師さん(神仏。絶対的存在)で、
そしてもう一つは自分の手であると思います。
自分の手から、
お大師さんの手に合わせにかからないと・・・
つまり、自分の煩悩
【わがままな心・自己中心的な心】を捨て、
そして自分の真心から、
『信仰(即ち「悟り」)』をいうものへと覚醒し、
絶対的な帰依(オマカセの境地)しないと、
“お大師さん(絶対的真理や願い事の達成)”とは
永遠に出会えないように感じました。
煩悩をガッツリと抱えたままの人が
「お大師さんと出会えた」と言っておられましたが、
「大師まがい」というニセモノが存在するようです(笑)。
清浄な場所や人の心には、“神”が降臨して来て、
不浄なところには、“まがい者”しか居座らないようです。
88番から1番まで逆回りすれば、
お大師さんに絶対会えると言われていますが、
お大師さんは、自力本願(清く正しく美しい自己努力)を
一所懸命している人にしか現れてくれないと感じました。
ほんとお四国には、日ごろお会い出来ないタイプの方々がとても多く、
とてもいい勉強(多種多様なものの観察の場)になっております。
私自身、肝に銘じたいと思いました(^人^)☆