信仰とは「善悪」である。

【信仰とは「善悪」である。】

お四国参りなど、

日本古来の神仏が祭られている場所に行きますと、

信仰対象物に向けて

一所懸命手を合わせておられる方を

たくさんお見かけいたします。

その方々を静かに観察しておりますと、

【自分の損得のみ】を祈願している人がおられます。

例えば、自社が儲かりますように、

病気が治りますように・・・なと。

カミサマホトケサマは、自分の利益のみを祈願する人間には、

一切の助けの手を差し延べません。

むしろますます経営や病気は悪化してゆきます。

そんな苦難を与え、

その人の損得に歪んだ我儘な心を正しそうとされます。

真に正しい信仰とは、

【損得】を求めて祈願するのではなく、

【善悪】の【善】を求めるべきであります。

善を追い求める結果、おまけの副産物として得が与えられるのです。

先に得を求めるのは順序が違います。

祈願の在り方として、

「ますます世の中をよくするために、

我社に関わる全ての人をよくする為に、

どうぞ(神仏の)お力をお貸し下さい」

「まだ幼い子供を一人前に育てる為に、

今抱える私の病気が治りますように」など、

先に【善】・・・つまり

「【自分以外の他者】の幸福を祈願&応援するという“すなおな心”」

が必要だということです。

神仏のような清浄な絶対的存在は、

清浄な場所、清浄な家(家系)、清浄な会社、

そして清浄な心を持つ人間のところにしか降りて来ません。

穢れた場所、穢れた家、穢れた会社、そして穢れた人間には、

何も降りて来ないか、“まがい物のカミサマ”・・・

神仏のカタチをした動物などの霊が住み憑いています。

本物の神仏がいる場所は光輝き、

まがい物のいる場所は影があり、陰気さが漂い、

分からない人間は見た目のメッキに騙され

本物の黄金だと勘違いします。

騙す方も悪いですが、

騙される方も【観る目】がなく、愚かであります。