私たちが暮らす娑婆(人間の世界)と違い、神仏の世界は、
善悪という全く相反する要素(相対的要素)は無く、
全てが絶対的善・・・
則ち一切が【愛】であり、
そこから発心されるのが【光り】で表現された
【真理・真実(大自然の法則)】であり、
その光りに繋がろうと
我々人間自らが努力しようとする行為が【祈り】であり、
またその絶対的善の存在に
自ら一切を委ねる行為を【帰依】と言い、
それらの総称を【信仰】と言うのだと感じています。
私にとってこの奈良・大峯界隈は【信仰の聖地】であります。
が、ここで暮らしたり商売している方々にとっては
【日常生活の場】ですので、信仰の聖地という感覚は薄いようです。
相対的要素で構成されている娑婆(日常生活の場)は
愛に見せかけた虚実が蔓延り、
何が虚実で何が真実かが、掴みにくくなっています。
何故掴みにくいのか?
それを掴もうとする、その努力・プロセスそのものが、
人生、そのものということなんだからと感じています。
もしも容易に掴めたら、
人生の醍醐味や深い感動が得られないからだと思います。
また、ちゃんとしたものを掴もうとする
その努力の積み重ねの時の中に人生の本質・根本が
存在するからなんだと私は感じています。
掴みたいものがある、叶えたい夢がある・・・からこそ、
どんな苦難や試練があっても
私たち人間は前を向いて歩いてゆけるものであり、
その歩調が、人類・地球の進歩にも
繋がっているからではないでしょうか?
・・・娑婆は虚実が多くまた見えづらいのですので、
絶対的善の神仏の世界に
行きたくなるのもまた人間の性であります。
しかしながら、神仏の世界では
自らの虚実は全てあぶり出されてしまいます。
娑婆ではありとあらゆる手段で、
他人を騙すことは比較的簡単ですが、
神仏という絶対的存在の前では
そのような、小手先の手段は皆意味を成さず、
真実虚実全てがまる見え状態です。
だから娑婆とは別の意味で恐怖です。
カミは私たち人間に絶対的愛を与え続けており、
それを【おかげさまの力】とも呼ぶようですが、
その一方で一切の虚実・罪をあぶり出され、
それに対しての罰をも与える、
問答無用の恐ろしい存在でもあります。
一見相反する要素を持つ、
絶対的存在であるカミではありますが、
人間の罪に対して罰を与えるのは、
その人間により善くなって欲しいと願っておられる・・・
つまり【愛】から発する光の裏返しであり、
愛と同一のものであると思います。
だんだんと、そのようなことがわかってきまして、
信仰というもののすごさ素晴らしさと同時に感じる
恐ろしさがあいまって【畏敬の念】を抱き、
それでもやはりこれからも私は
ご縁のあるカミホトケに帰依して行きたいなぁと感じています。。。(ー人ー)☆