大阪に帰って来て、
ミョ〜に鮮烈な冴え具合が継続しております・・・
ヤバイ(笑)♪
この冴えっぷりの原因は、
やっぱり石鎚山・天狗岳での出来事(気づき)です。
既に私上記のブログにあれこれと記載しておりますが、
石鎚山の最も高い場所は「天狗岳」です。
石鎚神社のお社がある「弥山」には、
17日の午後1時頃には数百人はおりましたが、
濃霧並びに時々強風が吹いていた為に、
天狗岳まで行こうとする人は殆どおられませんでした。
それだけ危険なのです。
全ての条件を満たし、そして神(蔵王権現様)から
選ばれた縁者でしか行けない聖域の中の聖域
のような感じがいたしました。
私は今回、登拝する前から「雨天&強風でない限り、
天狗岳にチャレンジする」と
肚を決めてから登って参りました。
ですので、「崖から落ちたら怖い」という感情は常にあっても、
ゆっくりでも足を前に進めて参りました。
途中で引き返すという考えは一切ありませんでした。
なぜそう思うのか?
それは、そこに行けば【私が全身全霊で求める何かがある】
という確信(根拠の無い自信)が在ったからに他なりません。
みんながいる弥山から天狗岳までは
500メートル程かと思いますが、
精神的にかなり長く感じました。
本当に怖い・足がすくむ時は、
「南無神変大菩薩」と何度も唱え、
石鎚山の開祖である役行者の
【御陰様の力】をお借りしました。
私という人間の力だけでは絶対に
天狗岳に到達出来ないと、途中で気づきました。
「人間とは何と無力な存在だ」ということを実感し、
日々の生活でどれだけこの絶大なる【御陰様の力】を
頂いているのか・・・?
その霧の奥にその真理が観得た気がし、
深い感銘を覚えました。
途中家族連れ4名とすれ違った以外、
誰にも会わず、天狗岳に到着しました。
そこで5分程、一人で天狗岳にいました。
そこは、この世であってこの世でないと
感じる不思議な空間でした。
みんながいる弥山は濃霧&風の為、
全然見えず、声・・・気配すら感じませんでした。
霧というか、雲がどんどんと矢継ぎ早にやって来て、
私に当たり、そして白い闇へと消えて行く・・・
人生というものは、この雲のようなものかと、
人生の現実をまざまざと見せつけられ、
一種の儚さを感じました。
儚き一瞬の夢の中で、私たちは今、もがき苦しみながら、
“雲のような幸福”を一つでも多く掴もうと
切磋琢磨しているのです。
私たち人間がどんな主観的感情で捉えたとしても、
人生の現実(客観的事実)これなんだと思いました。
だけど一方で、儚い・・・
未来永劫続かない命を今、
この手に持っているとからこそ、
一日一日、一秒一秒を大切に
生きなければならないと感じました。
その為には【絶対的感謝】つまり、
どんなことが起こっても有難いと感じる
感謝の念を持つこと)が大事なんだと思います。
なぜ人間は生まれ死ぬのか?
この人生で私は一体何を成すべきなのか?
私たち人間には分からない・・・
いや、分からないように出来ていて、
正にこの白い霧の中、
この崖を歩くような感じでいろんな恐怖や不安を
常に抱えながら切磋琢磨して
人生を歩むことを通して掴むもの一つ一つが、
その人その人の【人生の真理そのもの】であり、
そこに人生の根本的意味が存在するのだと感じました。
(補足:人は分からないから必死で努力するのです。
全て分かっていれば、手抜きしたり何もしないのです。
それだけ人間は傲慢で浅はかな存在なのです。
だから分かる必要がない。
目の前に来たこと・ご縁を必死でこなしているだけで、
自ずと道は拓けて来るのであり、
過去を悔い未来を憂えるのはなく、今、今、今!を
一点集中して生きるべきなのです)
その意味は人から与えられるものではなく、
自分自身で築き上げ、導き出してゆくもの
なんだということに気づきました。
なぜならそれは他の誰の人生でもない、
私自身のたった一つのかけがえのない人生【命】だからです。
また、その場所は静かで激しい、
恐怖であふれまた鮮烈な清らかが拡がる・・・
相反する要素が共存する不思議な空間でした。
きっと陰陽対立の娑婆世界を超越した、
この世とあの世が入り混じった場所・全てが
統一された絶対的宇宙を成す・・・
この世とあの世を繋ぐ出入り口であり、
また人間世界と宇宙(幽なる大自然の世界)と
繋ぐ道でもあると感じました。
人間の身体にはツボとかチャクラという場所
(気の出入り口)が存在しますが、
この地球も人間と同じ生き物であり、
地球が浮かぶ宇宙との
「特に強い気の行き来を行う“出入り口”」というものが
いくつかこの地球上に存在し、そ
の一つがここ・霊峰【石鎚山】なんだと感じました。
私自身、もっともっとこの娑婆での行を積み、
命を練磨し、そして魂が覚醒して来たならば、
わざわざ石鎚や大峯のような場所に行かなくても・・・
常に自らが求めれば、
この天狗岳にいるような感じで、
この世とあの世の間(双方の要素が存在する位置)に
自らの魂(心)を置き、全て(真理真実)が
ありのままに観得て来るのだと感じました。
ほんと、何の因果か、独身女子の私が
40歳手前でこのようなことがちょっとずつですが、
観得て参りました。
石鎚山も含め「修験道」って、
底なしの凄さ【宇宙】がありそうな感じです。。。
ヤバイ、ヤバイ (%ニヤ女%)(%ハート%)(笑)♪