「準備・後始末、心構え」
↑物事を結実成就させるために必要なことかと思われます。
私は四国遍路をする度に確信を深めていることが、
【死ぬ】という事に対しての準備即ち
“心構え”が、必要であるということです。
一般的に【死ぬ】という事を忌み嫌い、
縁起でもない!と避けて通りたい&
無視したいという気持ちが人間社会に蔓延っています。
しかしながら古今東西、
どんなに偉い・賢い人やお金持ちでも、
未来永劫死なない人間は存在しておりません。
また老いているから早く、若いから遅く来るとも限りません。
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とりわけ突然死んでしまった人や、
老いて死んだ人でも人生の後始末(遺言、遺産相続等)を
きちんとしていなかった人の周りにいる人たちはその後、
大変なご苦労や修羅場を味わってしまう可能性が高いようです。
自分が死んだ後、遺された人ためへの“愛の発顕”として、
きちんと後始末をした方がいいのではと感じ、
私は母親には「万が一、私が先に逝った時」のことを
さらっと話してます(いくらなんでも準備早過ぎ?!笑)。
私が親よりも早く死んだ際は、
私の亡骸にお遍路の白衣を着せて欲しい等と、
あれこれ頼んでおります。
以上がいつかは死に逝く自分自身がすべき、
周りの人のための準備・後始末、心構えのお話しです。
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次に自分自身の今歩む善き人生のために、
【いつかは必ず死ぬ】という事実に、
たまにはちゃんと向き合うべきかと考えています。
毎日生きてますと、生きていることが【当たり前】になり、
生きていることに対して傲慢になりがちです。
「あれが欲しい!」「あいつはイラン!」などなど、
我儘ばかりです。
今ここに生きているからこそ、
いろんな物が手に入れることが出来るし、
あれこれ一喜一憂出来るのです。
不足不満を感じるその悪想念の根本は、
生きていることに対する傲慢さのように
思えてなりません。
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だからそんな不自然な、
虚実であるその想念を正すために“天”は、
我々に様々な苦難を与えるのだと感じています。
苦難を与えられて始めて「いつまでも命がある訳やない」
という至極当たり前の事(真実)に気づき、
反省懺悔・改心し、【有難いという感謝の念】が
沸いて来るのではないでしょうか。
人間の傲慢さ・我が儘が他者との摩擦や対立を生み、
逆に感謝の念が、自身に謙虚さを生み、愛和を生み、
そして物事が結実成就してゆくのではないでしょうか。
・・・そして
自らの【死】というものを意識して始めて
自らの【死生観】というものが
確立されてゆくのではないでしょうか。
死から生を観る。
今の人生を死という“裏側”から観てみる。
そうすると【全て】が覆される。
今までの見方考え方とは全く違う物凄いパワーを
秘めた生き方に気づき、
人生が今までとは全く異なる次元へと上昇し、
飛躍的に善くなっていくものなのではないでしょうか。
【生は死の仮相であり、死は真の永遠の生である】
【死は生の実相である】
それを真心から理解して始めて、
即身成仏=真の幸福の域に達するのではないでしょうか。
死(への恐怖)を超剋して始めて、
全て(娑婆に存在するありとあらゆる恐怖や制約)から開放されて、
(心の)自由を得、平安な真の幸福に至るのだと感じています。
死というのものは人が生まれ育ち・・・
そして朽ちて行く節目であり、
一木一草の営みと同じ、自然現象の一つであります。
ですので、いちいち一喜一憂していることこそが
不自然なのはアタマでは分かっているのですが、
やっぱり死は怖いと感じるし、悲しいものですよね。
かれこれ10年以上、
曲りなりにもお遍路行をさせて頂いている身といたしましては、
やっぱり即身成仏は憧れの境地であります。
ほんと我ら人間にとって、
この【死】という苦難は最大且つ最強の苦難であり、
永遠の課題でありますが、また課題があるからこそ、
それが生きる希望の糧にもなっていたりもします。
そうなりますと、やっぱり苦難・試練というものと、
幸福というものは同一のもの(セット)であり、
コインにのよう表裏一体のような存在なんだと思います。
きっと、生と死も見た目の現象だけが違っていて、
実は表裏一体のもの【大自然そのもの】なんでしょうね。
ほんと、人生って、面白いですねぇ〜(^^)☆
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