今日・9日は、拉致被害者の方々の実情を通して、
国家体制並びに国民の大罪を痛感し、
所謂フンマン状態で帰宅して参りましたので
(先程下記にアップいたしました)、
ここで心地よいお話をして、
今日もステキな眠りにつきたいナと思いマス(笑)♪
帰宅後テレビをつけますと、
憧れの“大峯奥駈道”が。。。すごい偶然!
テレビ越しでしたが、法螺の音(ね)が、
私に憑く邪気を一気に祓い清めてくださいました。
南無神変大菩薩(T人T)☆
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・・・人生生きておりますと、
いろいろな「快い感情」「善い気持ち」を抱く瞬間があり、
その瞬間をまた味わいたいがために、
また更に上を行く境地を味わいたいがために、
我々人間はそこに心血を注ごうとする存在かと思われます。
私自身、この人生で最も快い“光”を
感じる瞬間が何か?と考えた時、
真っ先に思いつくのが、
【嗚呼私って今、生きているんや!】と
ハタ!と実感した瞬間です。
過去何回かありましたが、解り易い事例を申しますと、
昨年夏に私は愛媛県にある霊峰・石鎚山を登拝致しました。
一緒に登った仲間は石鎚神社の祠がある
弥山(みせん、標高1974メートル)で終えられましたが、
私は更に上にある天狗岳(てんぐだけ、1982メートル)まで一人、
濃霧と言いますか、雲が素早く過ぎ去る・・・
左右崖&柵ナシの岩山を荷物を一切持たずに、
ゆっくりと歩いて行きました。
天狗岳までの道は一面真っ白で強風が吹き荒れ、
気を抜けば左右どちらかの崖から落ちて即死しそうで・・・
この世であってこの世でない、
恐ろしくもありだけど神秘的で惹きつけられる不思議な空間で、
私自身が透明人間になったような・・・
霧か雲か風になったような不思議な感覚がし、
例え崖から落ちても、
鳥になり空へ元気よく羽ばたいてゆけそうな
心境も少し感じました。
【恐ろし過ぎる】と【素敵過ぎる】と全く相反する感情が
私の一つの心に同居し、調和し、一つになっていました。
天狗岳に到着し、数分だけぼーとしてますと、
“お山”にある土や岩、木々と完全一致し、
私自体が“お山”になった心境になりました。
「ああ。私という存在は、こんな感じで大自然の一部であり、
そして【全て】なんやなぁ」と感じました。
そして仲間が待つ弥山にスタコラと帰って行きました。
無事弥山に着きますと、みなさん濃霧の為、
「よしこちゃんの姿が見えない!一瞬霧が晴れて見えたら、
とんでもない岩山をよしこちゃんが登って下りてるやん!」と
ヒヤヒヤしてはったそうで、そこで私は自分の無謀さ、
そして「嗚呼、私は無事天狗岳から生還し、
今生きているんやなぁ!!!」と、
何とも言えないレベルの快感【感謝の念】が沸いて来ました。
あの瞬間、石鎚山や光輝く金のお山に観えました。
人生、命かけて死ぬ気でやれば何でも出来るし
(=山より大きな獅子は出ない)、
めちゃくちゃ恐怖やけどそれと同じくらい快感で・・・
ほんと、人生における真の醍醐味はこの
【命がけの瞬間】に存在するのかも知れない、と感じました。
別に命がけの危険な事をするのではなく(笑)、
自分が寝食を忘れる程に没頭出来る【何か】なんやと思います。
その【何か】が自分だけではなく誰か・何かをも
幸せに出来る事だと最高ですよね。
・・・そんなかんだで私は、このような快感、
即ち【人生の歓喜】を多くまた深く味わい、
それを広めたいがために、日々この手のことをやり続け、
皆様にお知らせさせて頂いているのだと思います。
ですので、来月初チャレンジ致します
熊野古道(中辺路ルート)徒歩巡礼はまた違った角度から、
善き気持ちが沸いて来るような気がして、
今からものすごく楽しみにしております(^人^)☆
★捨身(しゃしん):身・命・・・全てを喜んで捨て
(喜捨す)ることにより【全て】を得ることが出来る。
(究極の「発顕還元の原理」)