「幸福の原点(もと)」

寒空の下、我が家の敷地の片隅に、

菊が咲いていました。

菊と言えば、父方の祖母・キクエさんを思い出します。

明治大正昭和を生きたおばあちゃん。

大変な時代、正にこんな寒空のような

状況の中で耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・

生きたおばあちゃん。

だけど、今私の手元にある、

四国遍路に行った時のおばあちゃんの写真は、

友達ととても楽しそう。

辛いこともたくさんあっただろうけど、

楽しいこと・幸せなこともいっぱいあったと信じたい。

そのおばあちゃんが実際、四国遍路をバスで2周したのは、

私が1歳の時と小学校の頃。

だけど時空を超え、今私が四国遍路をしていると、

ふっとおばあちゃんのことを“感じる”瞬間がある。

ほんと、私一人でお遍路をしている訳ではない

【同行二人】の遍路、そして

人生を今も共に歩んでいるという実感。

一度でもこの世に生きていた人間の【念】というものは、

肉体は消えて無くなったとしても、

どこかに存在し続けていて、

今も私たち命ある人間を陰で

支え続けているのではないでしょうか。

目に見えなくなっただけで、感じれば、

存在を実感することが出来るもの・・・

なのではないでしょうか。

おばあちゃんが生前作った

四国と西国霊場の掛け軸は叔父経由で今、

私のものになっています。

この掛軸を眺めておりますと、

おばあちゃんが生前積み重ねていた功徳を、

孫である私はたくさん頂いているなぁ・・・と、

ただただ感謝しかありません。

私の先祖供養の念にも力が入ります(笑)♪

「(本当に)大切なことは目に見えない」。

『星の王子さま』の名言ですよね。

・・・一方、自分にとって本当に大切なものは、

自分の身の周りにあるもの、

自分の心の中にあるものを自らの意思・選択により、

出来る限り多く捨ててしまうことにより、

観得て来るのではないでしょうか。

一つの生命体としての地球の意思(想い)として、

自浄作用が本格化し、

日本並びに地球の次元は変わり(進化し)、

多く持っている・貪る人間が、

持っているものやもっと持とうとする

自らの想念によって苦しめられ、

不幸になって行く時代へと変わっています。

我々日本人は本来、「足るを知る」大和民族であります。

大きな和を愛し、それを実践する民族であり、

今こそ“和を以て貴しとなす”生き方に

還るべきであろうかと思います。

「もっと欲しい、もっと得たい」をいう自らの我欲や、

失うのが怖い、足らないと不安だという

恐怖の自我に心が囚われているうちは、

真実は観得る訳もなく

(どうでもいいガラクタに囲まれ埋もれている状態)、

「本当に大切なもの」に気づくことは

永遠にないのではないしょうか。

その本当に大切なものは、他人が持っている訳でも、

どこかの聖地にあるのでもない・・・

自分のその心の中の、ガラクタの中に埋もれている。

その本当に大切なものを、

敢えて言葉で表現するのであれば、

【命】というものなんだと思います。

今ここに、

命というものを持っているからこそ人生があり、

様々な物質を持ち、人との繋がりを得、

いろんな喜怒哀楽を感じることが

出来るのではないでしょうか。

私たち人間としての【幸福の原点(もと)】は、

この【命】があるということにあり、

そこから絶対的感謝の念が発心され、

真の幸福への道のり(命を、人生を育むプロセス)が

いよいよ始まり、

高まっていくのではないでしょうか(ー人ー)☆