白虎隊の墓参に行って参りました。
あれこれ資料を見、あれこれ人に聞きまして・・・
どうやら鶴ヶ城&市内が見える飯盛山で最期、
白虎隊が全員自害した中で
偶然一人生き残った人がいて、
その人が白虎隊の真の語り部となり、
世に広がって行ったようです。
この白虎隊の悲劇を象徴とする、
幕末維新・戊辰戦争の惨劇は、
決して一言では書き切れないものがあります。
詳細は各書籍や司馬先生の
『街道をゆく〜白河・会津のみち〜』を
ご覧ください(笑)♪
私がその場所飯盛山に行った感想の一つですが、
革命によって齎された「勝者」と「敗者」が在って、
その勝者=100%善であり正しい、
逆に敗者=悪であり全部間違っているという
図式は真実として存在しないということです。
歴史とは、先人たち全てが紡いで来た、
いろんな色の糸であり、
ざっくりとした流れは分かっても、
全容は宇宙の如く分からず、詳細は誰も分りません。
なぜなら、人間は長くとも
120年くらいまでしか生きれないので、
だれもそれ以前の過去を、
それ以前生きていた人の人生をこの目で
確かめることは出来ないからです。
歴史は勝者が作るもの、勝者の都合の良いように、
書き換えて伝わっていくものであります。
例え虚実が真実であるかのように伝わっても、
人間が死に生まれを繰り返しているうちに、
だれも真実が分からなくなるからです。
人間は正しい情報【真実】を得、正しい判断をし、
そして正しい行動をしなければ、
人間として正しい生き方は出来ません。
浅はかで無知で欲に囚われておりますと、
正しい情報が入って来ない
【ありのままが観得ない】と思います。
従って常に歴史であれ、日々の人間関係であれ、
インターネットやマスコミであれ、常に
【これは真実か?虚実か?】を見極める能力・・・
つまり【直観力】を身につける必要があろうかと思います。
私の場合は、その力を身につける一つの鍛錬・方法として、
このような「歴史探訪をすること」であります。
歴史(=過去)を知ると、今が観得て来ます。
すると【流れ・横】と【本質・縦】が観得、
おのずと未来(先、方向性)が観得て参ります。
会津若松の方々は、
白虎隊の悲劇を象徴とした戊辰戦争や、
第二次世界大戦の失敗を深く味わいつつも、
【艱難汝を玉にす】で、
廃残の会津若松から後年多数の人材を
輩出して世に広く活躍していきました。
貫徹する会津若松の方々の強さ・凄さは、
①石高が高い=比較的気候がよく、
米をはじめとする農作物がよく採れたり
(=食べるものに困らない)、
土地が豊かであり、名産品も多く、
交通の要で人の行き来が多い。
②藩の施策により教育的レベルの高い、
他藩と比較して中級階級が多い(教育・貧富の格差が少ない)。
③不条理な歴史的苦難を多く与えられるも、
それをバネによりよく生きる術を知っている。
現代においては、幕末、徹底的に会津若松を
苛め抜いた長州(山口・萩界隈)よりも、
会津若松の方がいろんな意味で水準(レベル)が
高いように感じます。
苦難は人をより強く、よりよく導く糧であると、
会津若松人は先祖代々知っているのでしょうね。
東北人は粘り強いし、耐える力も凄いし、
コツコツ努力することに長けていそうです。
(どうも我々西国の人間は、義よりも利、
立ち止まりコツコツと深めることよりも、
常に流れる・変わることに目が移る
傾向があるように感じます。
これも風土や歴史が深く関係していると思います)
・・・薩長が革命を興すためだけに、
(さっさと大政奉還して逃げた15代将軍徳川慶喜の代わりに)
会津藩を「賊軍」として、歴史に虚実を創造し、
会津を火の海にし、会津人を会津から追い出したのです。
果たしてそれが正義なのでしょうか。
天から観た【真実】なのでしょうか。
これは、河井継之助がいた越後・長岡藩もしかりです。
北越戊辰戦争を回避出来る方法が、
薩長にあったかどうか。。。
薩長側にも物事を分かる善き人材が
多ければ良かったのですが。。。
要は私が感じたことは、人間が人間である以上、
100%善人もいないし、
100%悪人もいないということであり、
そのパーセンテージの間(真実と虚実の間)で
歴史が生まれ、紡ぐまれ、流れていく・・・
まさに時間と想念の大河、
そのものが歴史であるということです。
その大河の流れいかに、より善く生きていくのか?
歴史的賢者に“直に”学びたいというのが、
私が歴史探訪をし続ける、もう一つの理由であります。
白虎隊十九士の墓