8日夜に東京から戻って来て、
暫くは八尾・大阪でじーっとしている予定です(?)
最近の私の旅行スタイルの一つとして、
司馬遼太郎先生の『街道をゆく』を片手に、
そこに記載されている場所に行き、
“司馬先生と共に”いろんな切り口から
日本の歴史(かたち)を知って行くというものがあります。
今回は3時間、全ては到底回りきれませんでしたが、
あっちこっちひたすら歩いて観て回りました。
東京都文京区・上野駅の西側あたりにある
「本郷界隈」です(戦前までは「本郷区」ってあったらしい)。
この地域はもともとより台地(陸地)で縄文遺跡もあります。
さらに歴史的経緯で明治初期に
向ヶ岡“弥生町”という町名が付いた場所から、
稲作初期の土器(遺跡)が出てきて、
それでその時代が「弥生時代」と命名されたとのことです。
もしもその土地が弥生町じゃなかったら、
別の名前の時代名になっていたということです(笑)。
江戸時代が始まった時は寒村だったこの本郷界隈は、
江戸の町の膨張(幾度に起こった大火災により、
道幅を広げるために、いくつかの大名屋敷が
この地に引っ越しして来たことが始まり)。
その大屋敷のドンが加賀前田家のもので、
大名屋敷群が出来たがゆえに、
それに関係する人のための施設や商売、
人間が集まり町になって行ったとのことです。
江戸時代が終わって明治となり、
広く海外に見聞を求める時代となり、
広大なる廃墟に近い形となっていた旧加賀藩屋敷の場所に、
お雇い外国人の官舎が出来始めやがて
日本初の大学(今の東京大学 本郷キャンパス)が出来、
学生&先生、文豪たちの町になっていきました。
現在も残っている、東大の赤門(この本の表紙にもなっています)は、
加賀藩が11代将軍・家斉の娘を貰う際、
降嫁(こうか)した奥方の場合には奥には住まず、
御守殿という独立した一郭に住むという掟があり、
丹(に)に塗られた門も建造されたそうで、
それが今も遺る赤門なんだそうです!
明治に入り、夏目漱石や正岡子規、森鴎外などなど、
多くの文豪たちがこの本郷界隈に集まって来ました。
そこに東大があったからこそなんだとか。
なるほど。。。☆
物事のなりよう(成り様)は全て
過去・歴史にある訳ですね(^0^)!!!
【写真】 東大の赤門
赤門を入ると綺麗な銀杏並木 (なぜか外国人観光客多し^^;)
さらに奥に行くと三四郎池(旧加賀藩邸跡)があります。
学生たちが弓道されてて、ちょっと江戸っぽくて嬉しかったです^^♪