「祟る」という言葉は、「立ち有り」が
転訛したものだんだとか。
なるほど☆
その情報を見つけて嬉しくなりました^^♪
祟りと言えば、恐れ多いイメージしか無いですが、
冷静になってその概要をさらっと文字化すると、
「神(自然界を司る偉大なる存在)による、
人間の向けての不満の通信方法」のようです。
神という存在は人間と違い肉体が無いので口もなく、
従って「言葉」というかたちで人間に
想いを伝えることが出来ないので、
各種自然災害などの【現象】によって
その意思を伝えて来る訳です。
次に「祈り」とは、「意に乗る」。
「神の意(意思)に乗る(合わせる)こと」が
転訛したものなんだとか。
こちらも、大いに納得です。
祈りの原点は、家族や社会、国や世界を想う赤心の心です。
自らの我欲を含んだ願いは、真の祈りではありません。
神社(神のいる社・場所)は常に掃き清められています。
それは次元の高い(おかげの力が強い)神々ほどに、
清らかな場所にしか降臨出来ないからです。
つまり自我の強い(罪深き)の心の汚れた人間の元には、
真の神々は宿れない・サポート出来ないのです。
従いまして、自我から発心された願いは、
叶うことはありません。
叶ったとしても、それは一瞬のこと“まやかし”であり、
より深い不幸の前兆現象に過ぎないのです。
カムナガラ(神ながら/神のように)に生きる・・・
その心こそが、真の人生の幸福へ道であり、
その人の心に多くのまた次元高き偉大なる神々が宿り、
その人をその周りの人を地域を国家を、
そして地球を、幸福にしていくのだと観じております(=人=)☆
【写真】八尾・玉祖神社の鳥居ともみじ