先日、晴天の昼間ふっ・・・と

ベランダで太陽を観じてみました。

目視出来ないので、目では見ずに、心で観じてみた。

【いろんなヒカリ】が煌々と降り注いでいた。

そうか。。。☆

常に太陽は【いろんなヒカリ】を

私たちに平等に与えてくれている、

“大いなる大自然の神々の愛の象徴”なのに、

私たち人間の心のフィルターがいろんなもので汚れていて、

その太陽が与えてくれている【いろんなヒカリ】の

一部しか自分の心の中に届いていない。

酷い人は全く届いていない。

だから人は失望したり絶望して自他を殺したり、

自分を責めたり他人を責めたり、

自分が病気になったり、大切な人が病気になったり、

人間関係がおかしくなったりする等、

間違った思考・判断・行動をしてて、

あっちこっちフラフラ〜と、間違った道に行っている。

求めれば与えられないものはない。

だって既にもうその答えの全てが降り注いているのだから。

真に求めていないからこそ、【いろんなヒカリ】から、

自分にとって必要なものを拾い出すことが出来ない。

多くの人の人生がうまく行かない一つの重要な要素は、

「真に幸せになりたいのではなく、

今まで培った(過去の思考・習慣に依存した)ラクな生き方のまま、

ラクして生きていきたい」という自我から発心した

人生を手放してないからだ。

地球(宇宙)は常に成長進化すべき存在であるというのが

【宇宙の法則】ですが、

自我に発心し成長進化を放棄した人間には、

あまねくその罪の清算が起こっている。

数々の艱難を多次元・多方面に与えられ、

否応なしに成長進化させられる方向に向かっている。

それに順応出来ない人間に待っているのは【死(命の抹消)】。

死んでから命を消されてから、

自身の大いなる罪を反省懺悔させられる。

「何も求めずに 何も変わらずに

いつも僕らを照らす太陽を

この暗闇の中 雨に打たれながら

ずっと待ち続けた

当てのない不安で 容易く変わるような

ものを僕は もう信じたくない

僕の見上げた空に 太陽があるから

それがとても嬉しいから」

という「太陽」という名前の歌が私の好きな

マッキー(槇原敬之)の曲の中でありますが、

今、まさにそんな心境。

(私もそうですが)人間って、不易ではなく、

易の存在なんですよね。

だからいい意味でも悪い意味でもコロコロ変わる。

心にフィルターのかかった自他の言動によって過去、

いろいろ振り回され不安になったり等しましたが、

私自身が【太陽という象徴】を通して

大いなる存在を観じられるようになった今、

自身の身の回りの状況が曇っていたり

雨風が酷くても、ぶれることなく、

私自身の与えられた道をヒカリのように

真っ直ぐに歩んでいける〜希望を見い出せる〜ことが出来ます。

これからも心のフィルター(自我我欲)を消去し続け、

その時々に必要な【いろんなヒカリ】をダウンロードし、

楽しく生きていきたいと思います(^^)♪

【写真】槇原敬之『太陽』(2000年)CDのカバー