先日、ご縁あって「熊野」に行って来ました。
今回の旅も、司馬遼太郎先生の
『街道をゆく8〜熊野・古座街道など〜』持参です。
所謂“司馬史観”を頼りに/基本テキストとして、
地方の歴史を知り、そこから日本という国、
日本人という民族のかたちを知り、
そしてこの地球の未来における
日本國・大和民族の役割【存在意義】
というものを探っています。
![](/img/u43837/FI4011390_0E.jpg)
2泊3日でマイカーぶっ飛ばして、
あっちこっち行きましたが、
一つだけみなさんにお知らせしたいと思います。
『街道をゆく』には載っていませんでしたが、
「大丹倉(おおにぐら)」に行きました↓
https://www.mikumano.net/meguri/onigura.html
やはり私は、肉体的なDNAの中に、
修験者の血があって、その血の影響がかなりあって、
この手の大きな岩の上に立ってみたくなるようです。
(座ることはしません。お尻をつけるのは、
大きな岩<この岩に宿る意識体>に対して
失礼だと観じるからです)
自らの確固たる意思により、
この家系を選んで生まれて来たんやと、
実感しています(笑)。
修験者的思考や価値観をお持ちでない方は、
なんのこっちゃ意味不明かと思われますが、
標高の高い、人里離れた、地場【気の流れ】の良い
大きな岩はとても魅力的です。
![](/img/u43837/FI4011390_1E.jpg)
世間はコロナパニックな上、遠くで雷が鳴り、
小雨が降ったり止んだりする時に、
誰もこんな場所に来る訳もなく(笑)、
この場所を大いに独り占めです^^♪
右写真は、意味不明な感じで、
指を指していますが(笑)、
私が一体何を指しているのかは
みなさんの感性にオマカセいたします。
雨が止んだ後に雲間から光明が差し込むと、
雨の水が水蒸気となって空に還っていきます。
そんな風景を写真に撮ってみました。
とても美しい自然の営み風景です。
![](/img/u43837/FI4011390_2E.jpg)
みなさん日々の人生の中で、
いろんなことを経験されておられるかと思われますが、
この雨粒のように雨が降って来て
(この地球の表面に生まれ落ちて来て)、
ちょっとしたら光明が差して空に蒸発して
消えてなくなる(天に召され死んで逝く)との同じ・・・
私たちの人生は【大自然の営み】
であるということを教えてくれます。
雨が降ってそれがやがて天に還っていくことに、
怒りや悲しみ、苦しみがあるのでしょうか?
私の場合、太陽からの光も含めた
【ヒカリ】というものの存在意義は、
「真実への気づき」であり、
「真実への完全一体化への営み」です。
![](/img/u43837/FI4011390_3E.jpg)
わざわざ人里離れた場所に存在する大きな岩に登るのは、
それだけその場所・その存在が清浄なる
偉大さがあるからですし、
私はその存在に呼ばれているから行っただけのことです。
大いなる神聖な意識が宿る岩というものは
地球の意識体の一部であり【そのもの】でありますので、
その岩(地球の意識)とやりとりするのが目的です。
なお、私の場合「やりとり」ですので、
帰依する訳でも崇める訳でもないので上下関係ではなく、
一つの大いなる目的を達成するための
【パートナー】という横の関係です。
人間は大なり小なり自我<色>というものを
持っておりますので、残念ながら、
今の状態に於いては真実をありのままに
教えてくれる存在ではありません。
従いまして、人間以外の万物ともやりとり出来る
感性/能力を持たなければならず、
そのためにも自らをクリアーにし続けなければならないし
(自分に自我というものがある限り、
他者の自我と共鳴し、未来永劫、真実に辿り着くことはない)、
それが私がこの度の人生に於いて
果たすべき役割にとって必要不可欠なプロセスで、
基本的な要素であると観じております。
![](/img/u43837/FI4011390_4E.jpg)