・・・が、豊臣秀吉〜徳川幕府は諸事情あって国禁にしました。
(その政治的決断は間違っていなかったと私は観ております)
国禁になった後、キリシタン大名(支配者層)は存在しなくなり、
アンチキリシタンの大名が
徹底的にキリシタン(組織)を破壊して行きました。
一方、長崎の地形を観ますと、坂/急斜面が多い・・・
つまり、山が多く平地が少なく、
この出津集落に行こうと思っても、
昔は幹線道路はほぼ無く、船移動がメインとなっていました。
船移動=人の移動も制限され結果、
キリシタンが潜伏しやすくなりました。
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そして、海に面していて平地が少ない=米が穫れない、
昔の日本は<米=お金>だったので、
慢性的に出津集落のような潜伏キリシタンが多い地域は貧乏で、
子供も長男以外は全員谷に落として殺さなければならない
(でないと役人がやって来て殺される)ので、
子供を落とす専用の谷まであったとのことです。
出津集落など外海に面し窮境を覚えた一部の人たちは
海を渡り、五島列島を開墾し、そこでもキリシタンを信仰し続けました。
平地でかつ安定した天気で米がたくさん穫れる、
しかも天領(幕府直轄地で年貢割合も低く、比較的裕福)だった、
直系の先祖を持つ私には到底理解出来ない現世の苦しみが、
この長崎の潜伏キリシタンの地にかつてたくさん存在した訳です。
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その現世の苦しみを真正面から解決・・・と言いますか、
その苦しみの中にいる方々の心を救おうとしたのが、
【キリシタンの教え】だったのです。
ですので、現状が苦しくても、キリシタンになればなる程、
幸せになれる・・・という境地があったということです。
・・・話戻して、明治時代に私財を投じてこの出津教会堂を始め、
この集落の貧しい若い女性のために住み込みの
職業訓練所(旧出津救助院)等をつくられたのが、
フランスからやって来たマルク・ド・ロ神父です。
ド・ロ神父の実家はとても裕福で、徳の高いご両親は、
ド・ロ神父に財産分与として現在にして24億円
(確かこんな莫大な金額だったかと!?)を渡します。
そのお金で持って、また自らの建築や印刷技術でもって、
貧しい出津集落の人たちのために出津教会堂などを
建てられるなどされたのです。
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ド・ロ神父は28歳の時に日本に来てから
一度もフランスに帰ることなく(両親と一度も会うこともなく)
日本で74年の生涯を終え、多くの時間を過ごした、
この出津の地で地元の方々と一緒に眠っておられます。
そんなかんだで出津集落の方々は
今も「ド・ロさま」とお呼びし、
尊敬や感謝の念を絶やすことがないとのことです。
ほんと、こんな【人類愛】がものすごいお方がおられたなんて、
めちゃくちゃ驚きで、そして感動的です。
涙なしには語れません。。。(T0T)☆
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【写真】
出津教会堂、旧出津救助院
(2階に置かれていたオルガン、時計、マリア像など全て、
ド・ロ神父の私財でフランスから輸入されたもの)、
ド・ロ神父の墓、
出津集落の海
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