今月末で緊急事態宣言が解除されるということで、
四国遍路行をまた気軽に出来る日々が戻って来そうです。
人様とワイワイ行くお遍路(巡礼遍路行)も好きですが、
一人で行くお遍路もとても気に入っています。
一人で行くと【自分 対 万物】という関係性がひたすら続き、
四国遍路の場合は“お大師さん”という、
1200年以上も昔から我が国に存在し続ける
スーパースター的存在と、思い存分コミュニケート出来る
という素晴らしさがあります。
お四国には「同行二人(どうぎょうににん)」
という言葉がありますが、
正に私たちお遍路さんは常に、
無限なる宇宙(虚空蔵)と完全一体化された
“お大師さん”を始めとする、
かつて遍路道を歩んだ多くの先人達の御力を借りながら
【宇宙の真理】を求めやすくなります。
日常またお遍路中に、いろいろな願いを抱えた人に出会います。
その願いの一旦が垣間観えた時、
私はその人の合掌姿に心を合わせ
「この御方の願いが叶いますように」と
合掌援助をさせていただく時があります。
それは真心からその人がその願いを叶えようと、
真っ直ぐに努力している時だけです。
その真心というもの中心・根幹にあるのが
【誰か/何かのために】という利他の想いです。
しかしながら、その数々の願いの中に強い信心/
他のことを置いても叶えたい!という、
絶対的な信念というものが観じられない、
中途半端な願いも多く、そして利他ではなく
自利から発心された願いも多数見かけます。
そのような願いはもう叶わない時代に入っております。
叶っても、それは永続的なものではなく
一時の【まやかし】であり、完全なる【罪】であろうかと思われます。
そもそも論といたしまして
「何故、その願いが叶わないのか?」その根本を知らずして、
その願いは叶い始めることは無いように観じております。
「叶えたい!」そのためには、所謂神仏という
存在の前で祈ることよりももっと大切なことがあり、
それは、その願いを叶えるための直接的な努力を日々、
その願いが叶うまでやり続けることであると認識しております。
その日々の姿を観て、我々の目には見えない
叡智(ヒカリ)という愛の存在が、やがてその人の元に向かって
一直線に差し込んできて、全てが永遠に満たされ、叶ってゆくのです。
多くの人間は「過去の延長上」に生き、
過去に囚われて生きてしまっております。
自分の経験則でしか物事を意識し認識することが出来ず、
自分という殻の中で自分は幸せだor不幸だ!と判断し、
ちっぽけな喜怒哀楽(感情や想念)の中でのみでしか
生きていないようです。
真の幸福は、自分のその経験/過去という殻
(自我・我欲と行ったエゴバリア)を破ったところにしか
存在しておりません。
その外にある虚空の世界にこそ、
全宇宙・全ての存在と完全に調和し一体化した、
永続的な幸福の世界/境地があるということです。
エゴバリアの中でちっぽけな自利を貪ることに
安住している人間、
はたまた中途半端なまやかしの幸福のみをかき集め、
惰性で生きている人間には、
の有限なる時間があっという間に終了し【死】、
否応なしにあちらの世界に強制退去することになって、
自分は何のために生きていたのか?!
その反省懺悔の時をあちらの世界でも
味わうことになりそうやなーと、密かに観じております(=人=)宇留祈☆
【写真】お遍路のいち風景(85番 八栗寺)