「沖縄旅③ 〜玉稜(たまうどぅん)〜」

首里城の後は、琉球王朝の王たち(第二尚氏系統)

のお墓「玉稜」に行きました。

たまたまボランティアガイドのおじいさまが

チケット売場におられたので、

みっちり1時間ガイドしてくださることになりました^^♪

このおじいさま、めちゃくちゃ歴史にお詳しくて、

沖縄に修学旅行に行く前の「事前学習」として、

大阪の私立高校に直接出向いて

出前授業もされてはるとのことでした(驚)☆

この方のおかげで、私の沖縄の歴史の理解が

一気に進みました(=人=)☆

琉球王国の王家である尚(しょう)家は、

沖縄本島で15世紀初頭に3つの勢力が競い合い結果、

統一を果たした尚巴志(しょうはし)が立ち上げた王朝です。

この尚巴志の家系の王朝は7代・60年余りで滅びました。

農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターを起こし、

政権を奪取し、新王朝を開いたのです。

金丸は前例や中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、

尚円王(しょうえんおう)と名乗りました。

このため、琉球王国の歴史では、

この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、

それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいます。

ということなので、第二尚氏王統のみがこの玉稜で立派に存在し、

第一尚氏王統のお墓は、第二尚氏に破壊されるのを恐れ、

こっそり隠れて沖縄島内に点在しているそうです。

第二尚氏王統はやがて、関ヶ原の戦いで西軍に回り敗北し、

財政的に逼迫した薩摩藩に侵攻され、首里城を占拠されてしまいます。

江戸時代、琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、

内実は薩摩藩並びに徳川幕府の従属国であるという

微妙な国際関係の中で存続していました。

明治維新により成立した日本政府は1879年軍隊を派遣し、

首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し、

沖縄県の設置を宣言、琉球王国はここで滅亡します。

そして第二次世界大戦。沖縄戦を経て、

アメリカによる占領統治がされ、

1972年5月15日の沖縄本土復帰され、今日に至りますが、

未だ米軍基地が多いなど、その名残が多く存在し、

深い影を落としています。

・・・結局のところ、沖縄という場所も力(武力/ケンカ)が

強い者・集団が、占領統治をし続けて来た訳ですよね。

残念ながらこの地球は、このような力の原理【弱肉強食】で

今までやってきた・・・ということです。

だけど、それでもなお、この地球上に

「沖縄(琉球)らしさ/アイデンティティ」が残っているのは、

この地球上に於ける一つの奇跡なのでは!?と、

私は深い感動を密かに覚えています。

入れ代わり立ち代わり強者・権力者たちによって占領され、

生命と財産を搾取され続けても、

生き続ける・前を向いて歩き続けるその力は、

一体どこから湧いて来ているのか?!

とても興味深く、深く知ってみたいと思いました。

玉稜の入口前の広場には、神の島・久高島の砂浜の砂

/サンゴ礁が敷き詰められていました。

「浄化」のために敷かれているそうです。

・・・琉球王国の表の権力者は「王」で男性ですが、

「陰の権力者」と言いますか、この国をこの国たらしめている・

維持や繁栄のもと/源流になっているのは

「聞得大君(きこえおおきみ)」という名前の、

神の声が聴こえる・神と共に生きる女性だったそうです

(琉球神道における最高神女「ノロ」)。

男女・王と聞得大君。2つの陰陽の合一によって、

その国を、その世界を生成発展させて来たとのことです【祭政一致】。

きっと、昔の日本全体も、こんな感じで政(まつりごと)を

していたのだと観じております。

ま、現在の日本は「政教分離」を言っておりますが、

実際は我が国には天皇家がおられ、

昔は天皇家が【祭政一致】をしていました。

それが鎌倉時代に武家が歴史の表舞台に登場し、

天皇家は「権力/陽」は武家に委ね、

「権威・祭祀/陰」のみの役割になられました。

が結果的に、我が国は、どんなに日本国の政治が

おかしなことになろうとも、天皇陛下が最終的に

何とかしてくださるという絶対的な安心感/

信頼感があるのは、我が国における亡国の危機の時の

天皇陛下の言動が確固たる証拠となっております。

天皇陛下、万歳!!!!!!!!

玉稜 公式ホームページ(那覇市HP)

https://www.city.naha.okinawa.jp/kankou/bunkazai/tamaudun.html