佐渡・新潟旅⑧「『街道をゆく9 ~潟のみち~』後追い旅」

【過去の日記です】
2024年10月18日更新
11日(金)のお昼頃、佐渡島から新潟市内に戻ってきました。
・・・かつて我が国に大和政権が発足し以来、江戸時代までの社会的秩序や習慣が終焉を迎える戦後まで、我が国の権力者たちは水稲農業を奨励し普及し、それによって権力や富を得、各種秩序の安定を得ていました。かつてはカネではなく、コメが社会・経済の中心になっていました。
ですので、我々先祖は稲作が出来ないあらゆる場所も開墾し続け、水稲農業が出来る場所を命がけで増やし続けてきました。
その長年の国家全体を覆う習慣の影響で我々日本人は、稲や稲が採れる土地というものに大きなこだわり【一種の執着】が残っています。
今でも、全国有数な「米どころ」で、過去の日本人の中心軸にあった「コメ社会/経済」というものを観じに、司馬先生は新潟に旅にし来られたようです。
・・・新潟の【潟/かた】=河川の加工などで海が、河川が流す土砂のために遠浅になる場所のことで、どうやら昔、新潟市内の多くは【潟】や沼地が多く、人はあまり住んでいなかったようです。
ですので、新潟市内は歴史的な観光資源は乏しく、歴史好きなよしこちゃんとしては、昔から地盤の安定した陸地で、天守や街道沿いの宿場町などがある・・・佐渡のような人々の営みが脈々と続いている場所の方が面白く感じます。
潟や沼の多い、新潟【越後】の人たちは、なんとかして、自分たちのよりよい生活のために、少しでも多く稲を作れる場所を確保したい!とがんばって来られました。亀田郷という地域では、戦後しばらくまで、淡水の潟に、わずかな土を放り込んで、稲苗を植えて(というか苗を浮かせ)、田植え作業は背中まで水に浸かり、背泳ぎのような感じで田植えをし、身体が冷えると一旦上へ上がり、桶の湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入って作業を続ける・・・という、あらゆる技術が進歩した現代人には想像の出来ない、壮絶な状況の中で稲を栽培されていたとのことです!
新潟市内のお宿で自転車を借りて片道8キロ程運転し、「親松排水機場」に行きました↓
新潟市の南側に「鳥屋野潟」という名前の比較的大きな池があります。周辺地域から水路を通って集まった不要な水がこの潟に集められています。
どうやらこの潟は、どう頑張っても稲を植えれない土壌の場所、もしくは不要な水を集める場所がどうしてもこれくらいの大きさが必要だったから、現在でも潟として残っているようですね。
この鳥屋野潟はその近くを流れる、信濃川よりも3.5メートルも低い場所にあり、「親松排水機場」から強力なポンプで鳥屋野潟に集まる不要な水を日々、押し上げて信濃川に排水し続けています。
人体で言えば、このポンプは人工の泌尿器官ということになりますが、泌尿器が故障すれば人体はたちまち尿毒症などを起こして死ぬように、この巨大ポンプが故障すれば、先述した亀田郷のような陸地はたちまち、陸でなくなり、潟に戻ってしまう・・・ということです。
鳥屋野潟と親松排水機場の巨大ポンプを観ておりますと、過去から現代までの人々のあるとあらゆる知恵の結晶を垣間見ることが出来、深く感動いたしました。
写真①・②:親松排水機場
写真③:信濃川
写真④:鳥屋野潟