初めまして、KGTANKのポリグル部門のリーダーをやってます。
中村諒と言います。
以後よろしゅう。
奥さんと同じく、3月3日〜3月10日までフィリピンに行ってきました。
人として先進国の人間として、学ばねばならない問題、事実に多いに携われた8日間でした。
この事実、問題をみんなにも是非知ってほしいので、フィリピンの8日間を紹介します。
一日目・・・
この日は夜19時に関空を出発して、マニラ空港へ現地時間11時ぐらいに到着しました。
飛行機内で思ったことは
「フィリピンの女性めっちゃ美人」
時差は1時間ほどしかなく、ついて速効ホテルでした。
二日目・・・
ポリグルという汚水を凝集剤やポリグル式IDOを利用してきれいな飲み水に変える技術を紹介しに行きました。
ポリグルとはガイアの夜明けで二回放送されたのですが、ある「PGa21Ca」という凝集剤を開発し、その凝集剤と従来の乾そくろ過システムを組み合わせ、途上国のお水のインフラが整っていない地域にも安価で簡単にきれいな飲み水を作る活動もしている株式会社です。↓↓
URL http://www.poly-glu.com/
今回この技術の紹介を二日目でしてきました。
一番初めに向かった先はマニラ市の現地NGO団体KPMLの事務所です。
この団体はフィリピンの国家開発当時に強制立ち退きさせられた住民の権利などを国に対し主張したりしている団体でこの事務所の近辺はスラムと呼ばれる、貧しく危険な地域でした。
私たちはそのNGO団体及び現地の住民数人に向けデモンストレーションを行いましたが・・・
なんと!!
フィリピンは5年ぐらい前に水道が整備され、なおかつ街中には浄水を売る販売所が転々とありました。
なので、「こういった汚水を生活に使われている方挙手を!!」
「・・・シーン・・・」
「あお水きれい?いらない笑」
としょっぱなから戸惑い笑
ただ逆にお水が整備されていてお水によって苦しむ人が少ないことがわかりよかったなと感じました。
私の中学レベルの英語の発音に大爆笑を誘い、現地のおばちゃんに気に入られたし結果オーライ
その場所を後にしてみなさん一度はテレビで見たかもしれませんが、海の上に木の家を建てて暮らしている、マニラ近郊ナボタススラム地区へ行きました。
ここの人たちはボロボロの服をまとい、今にも抜けそうな板の上でハエが飛び交うような場所で暮らしながらも幸せそうに楽しそうに笑っていました。
そこの幼稚園でもデモンストレーションをして、結果も同じでしたが、雨が降ると水が汚れるそうなので、この凝集剤がほしいとのことで、今後ポリグルと話を詰めます。
そこではもう事前に用意した文章などは捨て、土壇場で話たんですが、それがよかったのか帰るころには小さい子供らが
「RYO NAKAMURA RYO NAKAMURA」
と大勢のガキんちょが握手を求め、手を振って笑ってくれました。
こいつらは私たち先進国のような経済的に豊かなものの目から見ると貧しく辛い暮らしを強いられていると認識しがちですが、当の本人にしてみればそれが生まれてから当たり前の暮らしで、その暮らしの中で楽しさを見出している。
「そこに私たち外部の人間が土足で踏み込み、ボランティアで何かしてあげる」
ちょっと違うんじゃないかな?
だいぶずれてると思う。
経済的に豊かであるがゆえに上から下にいらないものをやるようなそんな考えを持ってしまっているものも多いのではないだろうか。
だから金持ちやエリートの奴が一般的には大きな額なお金だとしても本人にとっては雀の涙程度の金を寄付して
「私は善人だ」
とうたってる野郎はくたばりゃいいと思う。
実はその寄付はまたその国の富裕層に行きわたったり政治家に行きわたるだけで何の解決にもなっていないことを知っているのだろうか。
寄付は良いことだが、そこにおごり高ぶりがあってはならにと思う。
だから我々のようにボランティアのようなことをする側は
「してあげる」 → NO!!
「させてもらう or 一緒にしませんか?」 → YES!!
精神が必要と感じた。ボランティアをすることによって自分の人間性を高めたり、大きな学びを得られることの方が多いのだから。
三日目・・・
バティスというフィリピンの方が出稼ぎなどから帰ってきて、様々な問題を抱える。そういった問題のサポートや自律支援をするセンターに行ってきた。行ってきたというよりは、2日目から最終日まで一年生だけはバティスが運営する施設に泊まっていた。
その運営をしている人たちは昔自分もその体験者であり、さまざまな苦悩の人生を歩んできた人達である。
その人たちが自分の辛い過去を赤裸々に話し、笑顔で笑い、私たちを
「自分の子どもだよ」
と言ってくれる。女性は強し。第三の母親がフィリピンにできた
四日目・・・
みこころの家というお金がなくて幼稚園に行けない子どもたちに安価や気持によって幼稚園に通わさせる幼稚園に行ってきた。
そこの園長らしきおばちゃんは関西弁バリバリのフィリピンの方でフィリピン国内のことやこどもを抱える親の問題など色々話してくれた。
五日目・・・
現地の若者が写真を通して、現代社会の問題や、その写真を通してメッセージを伝えることを行った若者と交流してきた。
今度関学でPHOTOボイスというタイトルのもと開かれます。
六日目・・・
皆さん「従軍慰安婦」という言葉をご存知でしょうか?
戦争時に軍人の性欲を満たすために、攻めた地域の女性を強姦しないために、賃金のもと任意的に雇い、レイプをするという職業のことである。
しかし実際は強制的に雇われ、賃金も無く、辞める自由も無く、一日数十人の相手をすることが多かったという。
この日に行ったマパニケの従軍慰安婦被害者の人たちは自分の体験を赤裸々に話してくれた。
「ある日、日本軍がいきなり攻めてきた。
軍人は各家庭の家をすべて燃やした。
軍人はその地域の住民を集め、男と子供をその結婚相手の奥さんの前で、生殖器や足、腕を切り落とし口に入れて燃やした。
赤ん坊はお腹を何回も刺され、八つ裂きに殺した。
残された女は軍人に誘導され長い道のりを歩かされた。
疲れて座ったり、倒れたりすると軍人から暴行を受けた。
やっと遠い道のりを歩き解放されると思ったら、家や時には外で、何十人もの男に夜通しレイプされた。
それは一日中休みも無かった。
朝、軍人は去って行った。
しかし女は帰る家も無く、自分の体験を誰に打ち明けることもできず6年間家にこもった。
ようやく外に出てみると今度は世間の男がみんな自分を襲ってきたり、笑っているのではないかと思ってしまう。
しかし女は頑張ってある男と付き合い、結婚をまじかにした。
女は自分が昔受けた体験を話した。
すると男は「汚れた女」を見る目でその女の元を去って行った。
その後も女は数多くの男と付き合ったが話をするとみな逃げて行った。
女は心をふさぎ、ある結婚した男には事実を告げずその男が死ぬまで黙っていた。
男が死んでからようやく話をするようになった。
女の年はいま、90歳を超える。」
この事実を聞いてどう思うでしょうか。
これは話をしてくれた一人のおばぁちゃんの人生ですが、彼女が襲われたのは12歳ぐらいだったそうです。
三姉妹でしたが、姉も妹も母親もレイプされました。
この事実を日本政府は認めません。
なぜならこの被害者たちは今ではもう高齢で、被害者の半分は亡くなっています。
あと数年ですべての被害者が死ぬことを願い、日本政府は時が過ぎるのを待っています。
この事実を知ったわれわれは何かすべきことがあるのではないでしょうか。
知らないものは知る努力をする。
知ったものは伝える義務がある。
知って何も思わないのは罪である。
私はそう思います。
彼女たちは最後に歌を歌ってくれました。
自分の体験、悲しみ、憎しみ、辛さ・・全てを込めて笑顔で歌ってくれました。
笑顔でいられることのすごさ、彼女たちが心に秘めた思いが私の単純な心に焼き付いています。
何か彼女たちのために行動しよう。
そう誓った一日でした。
七日目・・・
KUYAセンターというストリートチルドレンのこどもたちをこのセンターに通わせ、自律を願うセンターに行ってきました。
そのあとに実際にストリートで生活をしている場所の行き、その人たちと交流してきました。
ストリートの橋の下のごみ場のような場所で生活をしている場所から高層ビルが立ち並ぶ、ショッピング街が大きく見えます。
そこから見える景色は社会の矛盾点を見出している。
一緒に遊んだ子供たちは笑顔でいっぱいだったが、それぞれ負を背負っている瞳をしていた。
フィリピンは思ったより都市化している。
セブンイレブン、ミニストップ、マックもあれば和(なごみ)だってある。
しかしその一方で貧しい生活をしているものも多い。
あの有名なごみ山は無くなっていたが、実は別の場所に新たなごみ山ができただけで、何の解決にもなっていない。
そしてそういった外国の企業や会社が入ってくることによって、その会社企業に国民がお金を使ってしまい、フィリピン国内には財政が回らず、また先進国が富を積んでいく現状。
オバマが言うように今こそ
CHANGE
する時代なのかもしれない。