震災で自宅兼教室が全壊。でも行くとこがなく、途方にくれてたら、卒業生や知り合いが歩いて遠方から駆けつけてくれ、水やおにぎりを運んでくれた。うれしかったですね。でも感動や恐怖心も時間とともに薄れていくものですね。感謝さえもが・・・・
避難所や仮設に入った生徒らが、ボチボチ集まりはじめたとき、最初のあいさつは・・・・ 「 生きてた? 」 そして答えは 「 生きてた。生きてた。 」 だった。 生きてることを実感できた経験は、長く生きてる(?たかが65年だ)けど、リアルに感じたのは初めてかなあ。ひとつまちがえば死んでた、でも生きてた、っていう経験。第2次世界大戦のとき、昭和19年に生まれ、焼夷弾の降る神戸の街を、母のネンネコの中ではしゃいでいた僕だから、戦時中といえ、恐怖も悲しさもない。母は戦争と震災で生きてる間に2度も恐ろしい目にあったと言ってたけど、僕には初めてのことだった。
そして、そのあとから感じるようになったのは
「生きてた」 から 「生かされた」 だった 亡くなった友や なにかを仕残した仲間の分を 引き継ごうと・・・・・・
生かされたんだから、拾いもんのイノチや、先は少ないけど・・・・
子どもの側にしっかり立って、子どもの権利条約をないがしろにしないで
生き残ったことが ちょっとでも よかったと 言えるように
このフリースクールを続けていこうと 軽く決心した ように思う
やっと今年で20年
さあ あと なにができるやろ?
ちょっととんでもないプロジェクトをスタートした
市民がつくる「学校」、学校を否定的にとらえてきたフリースクールが
いま「学校」をつくろうとしている
なにか おもしろいと 思わないですか? 今日はここまで。