雨宮処凛 と語る

雨宮処凛の「フリートーク」にでかけた。彼女がすぐ近く、神戸三宮の勤労会館にやってきたのだ。彼女がホームレスやニートの問題に取り組んでいる女性作家で、右翼から左翼に転向したふしぎな人物ぐらいしか知識がなく、野次馬根性丸出しで出かけた。「難民化する若者たち」について自分の足で歩いて聞きとりしたり、いっしょにデモをした体験からの話は、やはり強烈で、心ゆさぶるものがあった。

 かつて、70年安保のとき、ボクも山谷(東京都荒川区東浅草)というドヤ街に住んでいた。流れ者というより、脱キリストの道をさぐる漂流者であった。すぐとなりの玉姫公園で、フォークの神様「岡林信康」が「山谷ブルース」をがなっていた。1年と2ヶ月、ボクは神戸に強制退去を命じられるまで、日雇い労働を続けていた。あるとき晴海ふ頭の沖の仕事で、出された弁当があたって、疑似赤痢になり、死ぬような思いをした経験がある。そのころの自分の合言葉が「限りなく底辺へ、辺境へ」だったから、1畳そこらのドヤ暮らしでも苦にはならなかった。しかし、山谷の日雇い労働者がつらいのは、夢がもてないことだろうなと思う。ボクは単に漂流していて、山谷は単なる止まり木でしかなかったが、多くの労働者はそうではなかった。東北などからの出稼ぎが多く、いつしか音信も絶え、故郷を亡くしたさみしい人たちだった。毎晩、夕方になると泣く老人がいた。理由があって、故郷へ帰れないのだ。

 みんなが、さみしい心と心を寄せ合って生きていた。それがいま、ドッとホームレスがふえていて、若年化していると雨宮さんは話す。さらにネット難民がどれだけいるか、政府は全く把握していないという。明らかに格差社会の底辺で、毎日死ぬか生きるかを考えながら暮らす人口が増殖していると。でも「死なないで」と彼女は語っていた。親に迷惑をかけ、このまま生きていても世間様の迷惑になるだけだと自分を責めて、責めて責めて責め抜いて、もう死ぬしかないと考えてしまう。でも彼女は言う「死ぬのは、ストップしよう、人はだれも、例外なく存在そのものが迷惑なんだから」と、そして「もっと生きてよ」と ・・・ 略

 雨宮さんと一緒に体験談を語ってくれた若い3人のパネリストたちの話も、心に染みるものがありました。みんなありがとう。ささやかながら、ボクらも手をつないで、生きてるかぎり人権と最低限の生活保障が得られる社会を夢見つつ、活動を続けていきましょう。