偶然できた「君が代」、されど「君が代」
「君が代」がどうしてできたか、この歳になるまで全く興味はなかったのだが、大阪で起立して歌えとか、くちパクではだめだとか問題になって、そのために教員がクビになるという大人気ない事件が起こったことがきっかけで、「君が代」って「だれの代」なのという単純な疑問からホームページをうろついていたら、その成り立ちを説明するページに出会った。
明治2年、イギリスから貴賓が来朝するというので、丁重にもてなすために各藩より英語に堪能な者が選ばれ、接待係に命ぜられた。鹿児島藩の原田宗助他数名であった。来朝が程近くなったころ、イギリスの軍楽隊長フェントから問い合わせがあって、宴の最初に日英両国の国歌を演奏しようと思うが、日本の国歌はいかなるものか?ということであった。英語には相当素養のある原田だが、国家など聞いたこともないし、存在も知らないから、あわてて上官に指揮を仰ぐべく軍務官に駆けつけ、その旨を申し入れた。ところが上官は丁度会議中だったようで、会議を中座させられていらいらしたのか「おまえらに英国貴賓の接待はすべてまかせてあるはずなのに、どうしてそんな些細なことで一々問い合わせにくるのか」「饗応については、手落ちのないよう取り計らえ」と、けんもほろろの挨拶をするや会議室にもどってしまわれた。
国歌なんて宴会の出し物のひとつくらいに考え、上官から適当に考えろと言われた原田はさぞ困ったことでしょう。もどって他の係員と協議する。そのときアイデアを出したのは静岡藩の乙骨太郎乙である。「なにか古い歌をさがそう」という彼の意見に一同が同意する。そして太郎乙が思いついたのが、幕府時代に大奥で「おさざれ石」の儀式に唱えられていた歌である。「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」。これなら陛下に失礼もないと評議は一決。しかしセリフはみつかったが、歌い方がわからない。そこで原田は鹿児島の古歌である琵琶歌を思い出し、君が代に節をつけて歌った。早速フェントン楽長を招いて数回練習し、フェントンが手直しして、作曲は完成。これが我が国歌「君が代」が出現した由来である。
その後、琵琶に合わせた音律で歌いづらいという批判もあり、まして日本語のわからなかったフェントンの曲だから、メロディーと歌詞が見事にミスマッチなものだったので、ドイツの音楽家フランツに編曲してもらって、現在の「君が代」が1880年に完成した。ということです。
まさか「君が代」がイギリス人とドイツ人の合作だとは知らなかったですねえ。