デモクラティックスクールで得られるもの

既存の教育・価値観の問題は、子どもの権利・尊厳を全く認めておらず、彼らを依存的な立場に縛って、18歳あるいは22歳ごろまで彼らに自分で物事を決めることを許さないでおきながら、その年齢になっていきなり「さぁ、自立しなさい」と言うことです。

それに対してデモクラティックスクールは、子どもが自分の物事を自分で決める権利を認めています。

しかし、ではデモクラティックスクールが子どもをまったく大人と同じように扱っているかというと、それは違います。

まず、デモクラティックスクールは、子どもが自分の衣食住のすべてを賄うことができるとは考えていません。学費は親が出すものと考えています。

ここには、いかにして人は依存からうまく自立した存在へと移行するかという問題が横たわっています。

人は、そして多くの動物は、子どもの間は大人に依存して生きざるを得ない存在です。衣食住に関しては、親が与えてくれなければ、自分で確保することができない存在です。

ただ私たちが犯す間違いは、その子どもの依存の状態をみて、「だから子どもは弱い存在であり、大人が全面的に守ってやらなくてはならない存在であり、子どもが正しい人間になるように教育してやらなくてはならない存在である」と考えてしまうことです。

本来人間は遊ぶ存在です。自分の好きなことをして喜ぶ存在です。

この遊びと働くこと・生きることとの関係を上手く調和させることは、人間が生きていく上での大きな課題の一つです。

わたしたちの社会では、多くの人はこの二つを調和させることができず、遊ぶことを犠牲にして、働いて生きています。

それだけではありません。多くの人は何をしているときに自分は一番“遊んでいる”のか、つまり楽しんでいるのか分からなくっています。

その原因の一つは学校教育にあるのは明らかですが、学校教育が出現した近代資本主義以前では人が遊ぶことと生きることとうまく両立できたのかどうかは分かりません。

ただともかく、既存の学校教育により、多くの人は子ども時代に自分の好奇心を犠牲にして、強制的に課された課題をこなすという不毛な時間を過ごしています。

これが問題なのは、その人の価値観・モノの見方が決定的に形作られる幼年・青年期において、今の社会では、「生きるためにはやりたくないことをしなければならない」という考え方を人は身につけるようになるということです。

デモクラティックスクールは、子どもの衣食住は親が賄うべきと考えていますが、それは、子どもにはまずその子の好奇心のおもむくままに生きることを覚えていって欲しいと考えているからです。

生活の糧を得るという課題に取り組む前に、まず“それをしていて楽しいということ”を子どもたちに見つけ出して欲しいと考えています。

そのような経験を子ども時代に思う存分することで、“遊ぶ”ということがその子どもの基本的な人生に対する態度となります。そのような態度を身につけた子どもは、きっと、生きるということと遊ぶということを調和させることが、大人になってからできるでしょう。

それは自分の好きなことを仕事にする場合もあれば、自分の仕事の中に好きなことを見つける場合もあるでしょう。

いずれにせよ、彼・彼女たちにとって、生きることは遊びであり、遊ぶことが生きることなのです。

そうなるためにも、彼らに必要なのは最大限遊ぶ自由です。

そして同時に、遊ぶ環境をどのように構築するのかという自由も得なければなりません。その環境が学校にあたります。この学校を自由に作ることができてこそ、初めて子供たちは自分の好きなように遊ぶことができます。

彼らにとっては、学校のルールを作ることは自由に伴う責任でありながら、同時に遊びと密接に関連しているのです。

学校という団体の場を自ら運営することで、自由に遊ぶためには、その環境を自分たちで管理しなければならないことを学びます。つまり、自由に遊ぶための環境は自分たち自身で創造しなければならないことを知るのです。言い換えれば、自由に遊ぶためには何が必要で何が必要でないかを知るのです。

そのことを知っていなければ、生きることと遊ぶこととを両立させる人生などは不可能です。

彼らは子どもという依存的な時期を経ながらも、自立した存在となるために必要なことを身につけていなければなりません。それが、上に記したような、デモクラティックスクールが与える経験なのです。