自分が自由でいたいなら、他人にも自由が生まれながらにそなわっていることを認めなければなりません。
先日、「子どもに完全な自由を与えてよいか」という題でデモクラティックスクール講座を行ったところ、この題がデモクラティックスクールとしてふさわしくないのではないかという意見がメンバーの間で出されました。
「大人が子どもに自由を与える」という視点自体がおかしい、という意見です。
「自」という言葉には、「何かがそこから始まる、起こる」という意味があります。
「由」という言葉にも、「ある事が生じてくるその原因」という意味があります。
つまり、自由という言葉は、ある物事をそれ自身が始めるという、主体的な意味があります。
デモクラティックスクールで子どもが自由であるということは、子ども自身に主体性があるということです。そこでの活動は子ども自身によって始められるということです。
それは、決して大人が許可するものではありません。大人が「許可」する時点で、それは大人が子どもに始めるように言っていることになるのですから。
大人が心得ておくべきなのは、子ども自身が何かを始めることができるということです。
それは、人と人との関係では当たり前のことですね。人はみな自分で何かを始めることができるし、それが自由です。
だから、人には自由を与えることはできません。
メンバーが言うように、大人が子どもに自由を与えることはできません。与えるべきでないというのではなく、与えることはできないのです。
だから、「子どもに完全な自由を与えてよいか」という言葉はおかしいと自分でも思います。
デモクラティックスクールは、子どもが自由を与えられるのではなく、子どもが自由でいる学校です。
>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
都会のサドベリー・スクール
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