「「授業中の私語による授業妨害について」。こんな掲示が関西の名門私立大学に張られていたと新聞コラムが紹介し、話題になっている。私語は、教授らが注意しても効かないほど酷いというのだ。」
(「私語は授業妨害」学部長が掲示 11月14日20時55分配信 J-CASTニュース)
今さらこういう記事が出てきて驚きました。なぜなら私が大学に入学した約20年前から、「講義中の私語」は問題化していたし、学内の掲示板には学長(学部長?)による「私語が授業を妨害している」という警告が貼られていたからです。
もっとも、その私の通っていた大学に集中講義に来ていた他大学の先生は、「静かに授業を聴いてくれてありがとう」とわざわざ感謝していたぐらいなのですが。
「なぜ授業中に私語があるのか?」
友達としゃべるのは楽しいからです。あと、授業がつまらないから。
「じゃあ、なぜわざわざ授業に出てくるのか?」
単位が欲しいからです。
「なぜ単位が欲しいの?」
卒業したいから。
「なぜ卒業したいの?」
大卒証明が欲しいから(どれだけ役に立つのか分からないけど)。
授業中に私語が起きるのは、授業が学生にとってつまらないからです。
何かがつまらないと思うことに、学生に責任はありません。つまらないものはつまらないのですから。
学生たちに責任があるとすれば、そのつまらない授業を受けることを選んだのは彼ら自身だということです。
しかし、それが自分たちの責任だと意識するのは彼らには難しいでしょう。
大学生にとって、大学に通うことは小学校に通うことと違いはありません。
小学校に行けと言われ、中学に行けと言われ、高校に行けと言われ、大学を受験しろと言われて大学に彼らは来ているのです。そのようなレールの上を走っている以上、自分たちで何かを選択するという経験を彼らはしたことがありません。
決められたことをするように言われ育てられ続けた彼らに、いきなり大人の責任を求めるのは無理です。
また、大学というビジネスも、大人から「ああしろ、こうしろ」と言われ続けた子どもたちを頼りにしているビジネスである以上、自分の行動に責任をもてない子どもに寄りかかってビジネスをしているのです。
大学がビジネスとして成り立つのは、社会に有益な情報を提供しているからではありません。社会全体に「この社会で生きていく以上、大学には行っておかなければならない」という通念が広まっているおかげで、ビジネスとして成り立っています。これは、「偏差値」が「底辺」の大学だけでなく、「名門大学」も同様です。
「名門大学」であれ「三流私大」であれ、日本の大学は何千人と学生を受け入れて初めて成り立っているのですから。日本の大学のすべては大衆大学です。
「大学には行っておかなければならない」という通念は、「子どもは勉強しなければならない」という通念と同様に、子どもは大人になる前に強制的に勉強させられなければならないという考えです。これは教育ビジネスが寄りかかっている通念ですが、同時にこの通念によって、子どもたちは長い時間をかけて自由意思を破壊され、自分で物事を考える人間にはなれないようにされていきます。
大学に私語が起きるのは、「幼稚な教授」のせいではありません。大学に通うに至るまでの過程で、子どもの意思が徹底的に根こそぎ抜き取られている現状を改善しようとしない社会全体にあります。
大学が私語を防ぎたいのなら、その現状を変えることに大学自身が乗り出す必要があります。
もっとも、そうなれば「大学には行っておかなければならない」という幻想に惑わされない子どもは増えるかもしれません。しかし同時に、大学には行きたい人だけが行くようになるし、私語は減るでしょう。
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参考:「恥ずかしくて来られないでしょ?」 日本で、サドベリー。