地場衛(ちば まもる)です。
今日も支援室には行っていないので、支援室ネタはありません。
先日、若かりし頃、体育・スポーツの研究をやっていたと言いましたが、もちろん体育・スポーツの実践もしていました。その中で、ただ単にスポーツ競技の技能を習得する授業ではなく、スポーツを教育現場の教材としてどのように編集していくかを学んだりもしました。
例えば・・・子どもの素人集団が普通にバスケットボールをすると、ドリブル突破のスタープレイヤーがかなりの確率で発生します。勝てばいいだけなら、スタープレイヤーにそこそこ活躍させれば良いので、放っておけばいい、ということになります。
しかしバスケットボールを学校の授業として、教育、発育・発達の観点から取り扱うとなれば話は違ってきます。上述のように子どものバスケットボールを放っておけば、生徒がボールに触れる回数に、極端な格差が生じます。これはつまり、「教育の機会均等」に反するわけです。
それまでスポーツを一所懸命していただけの若者(私のこと)には、まずこうした考え方を感性として受け入れることができません。それまでいろんな競争に勝つことが、重要な価値だったわけですから、ボールに触れる回数が少ないのは個人の責任である、と無意識に考えてしまっていました。
そんなところまで、小難しい理念「教育の機会均等」などを振りかざさないで、楽しくやろうぜ、と思ってしまうのです。ところが私の考え方がかわったのは、次のような経験をしたからです。
子どもにバスケットボールをさせるときに、スタープレイヤーの活躍を禁止するため、ルールを変えてドリブルを禁止しました。すると、スタープレイヤーは突然困ります。自分の力でディフェンスを突破してゴールすることができないわけですから。
ドリブルを禁止されたスタープレイヤーは、ボールを持つとパス先を探します。そして周囲は、スタープレイヤーが、困って自分を探していることを理解します。以前は、ボーっとしていても、スタープレイヤーが勝手にゴールしてくれていたのですが、今度はそうはいきません。周囲そして全体の動きは、突然活発になり、みんながボールをもらいに動きます。このときの全体の動きは、玄人集団のようになります。ドリブル禁止ルールの適用前と適用後では、全体の動きの活発さや美しさが全然違うのです。違う競技になったという感じです。福祉的に言えば、バスケットボールにおけるソーシャルインクルージョンです。
当時から涙もろい私は、ルール適用前・後の子どもの動きの違いに感動して、ウルウル状態でした。それは単に、動きが活発になって美しくなったから、感動しただけではありません。その動きの中に、スタープレイヤーが自分(周囲)を必要としている、お互いが助け合えば目標が達成できる、スタープレイヤーは誰かがいないとプレーができないと思う、そういう意識を子どもたちが身体活動として表現してくれたことに感動したのだと思います。要するに、ルール適用前・後の子どもの意識の違いに感動したわけです。
もともとの話しとしては、バスケットボールの授業における「教育の機会均等」を狙っていたわけなのですが、思わぬ素晴らしい副産物が生まれました。しかし「教育の機会均等」は先人の知恵ですから、上述したような例は、実は副産物などではなくて、これこそが「教育の機会均等」の本当の狙いだったのかもしれないと思うようになりました。
マモちゃんこと、地場衛