優しさと笑い、そして「きっかけ」

対人関係が淡い場合でも、場に相応しい優しい柔和な交流があります。優しさを伝えるものは、態度と声の調子と言葉(心)でしょうか。人は笑いを共有できると、格段に打ちとけることができます。
認知症は、本人から笑いを奪うものと言えるので、認知症予防には自然な笑いがとても有効です。頭を活性化するものとそれに伴う笑いによって、自然に自立心が復活していきます。

認知症の場合
 認知症の軽い発症者は、来客や押し売りなどに対して、相応しい対応が自然に出来ます。しかし少し時間が経過すると、立派に対応出来たことが、全く記憶に残らない、という「物忘れ」になるのです。その時期からもっと悪化進行すると、来客などへの相応の対応も笑顔も向けなくなります。
 認知症からの引戻しを目的とする予防ゲームでは自然な自発的な笑いをどのように引出すかが、第一関門となります。
 予防教室で最初におこなうゲームは、指の屈伸運動です。
「幼い頃に親たちから数を習ったように」などと言って両手を目の前に広げて、親指から順に曲げながら、皆で声を揃えて1から10まで数えます。
これが予防ゲームのウォーミングアップに相当する、「数を数える習慣の取り戻しゲーム」です。

笑えばどうなるか
 別段、面白くもない、できて当たり前の「1から10」なのですが、是をリーダーは「上手にできました」と大きな明るい声で褒めるのです。
 褒められた人は、こんな程度のことを褒められて〜、とばつが悪いような、半分お愛想笑いのような表情になるのが普通で、上手なリーダーはホンモノの笑顔を引き出すように褒め方を工夫しますが、是が大事な最初のキッカケになるのです。
 次に「これは易しすぎましたね。今度は早くしますよ」と言うと、身構えるような雰囲気になります。そこで、リーダーは声を励まして、前よりも大きな明確な発声で、「1,2,3…」と言いますと、皆が遅れじ、負けじ、と速さについて同調してくださいます。そこですかさず「綺麗に揃いましたあ」と言葉を替えて褒めます。すると、お義理で笑っていた人からも、自然な大きな、あかるい笑い声が出るのです。

重い命題を与えられて
数年前のことですが、文教大学の大久保サテライトキャンパスで、近隣の高齢の方たちに集まってもらって、認知症予防ゲームを楽しむ小人数の教室を行っていたある日のことです。雨降りで教室参加の人数がとても少なかったので、通りすがりの紳士然とした服装の人を呼び込んで、ゲームをはじめました。人数が3人と本当に少数だったので、笑いから入るのが大事、一寸した笑いで、固く冷たく心が萎縮している認知症の人の気持ちを先ず解いてもらうことが予防、引戻しのキッカケになるのだ、と褒める意味と効果をこの教室では初めて丁寧に解説したのです。 すると呼び込んだその男性が思いも寄らない質問をされました。
「キッカケから認知症を引戻すのですか。それならば、自殺しようとしている人間が自分から戻る事はあると思いますか?」という質問でした。ギョットしましたが、私は返事をしなければなりません。それで私は次のように言いました。
 自殺をしようとしている人は、思いつめているから自分から思いをかえることは難しいのではないか。周囲の人、例えば三原山だったら、土産物屋の人が、「ちょっとお茶でも飲んでいかれませんか」などと声をかけるならば、それがキッカケで思い止ることもできるのではないか・・・と、陳腐なことを言いました。
ところがその人はそれから自分が何者か、どんなに苦しんで年月を過ごしているか、東尋坊に飛び込むために行った、飛び込もうとした時ふと体がのけぞって上を見た、小鳥が二羽、木の枝に止まって、仲睦まじげにしているのが見えた。それを見て、ああ、小鳥でさえもあのように仲良く生きている、と思った、しばらくして後戻りをした。40歳違いの親族と長年遺産相続の裁判を続けていて食いつぶし、いまでは橋の下とネットカフェと半々の寝泊りをしている。弁護士もつけないで一人で裁判を続けている。という話しを綿々とされました。
ひたすら傾聴するしかなくて、教室の参加者が、たまたま気心知れた二人だけだったので、頃あいを見て元気がでる賑やかな玉入れゲームをして、「お元気で」と言い合って別れたのです。
ウソの話とは思えませんでした。
 追い詰められても身奇麗で、背広を着て、清潔そうで、物乞いなどには見えませんでした。「1から10」のゲームを一緒にして、褒めて、笑ってもらって、人心地を取り戻して、認知症から引戻す…、という話を解説したら、そのような展開になったのです。
その後一度も出会いませんが、その方は二羽の小鳥を見て自殺未遂から戻ったことに「なぜか」と思い続けておられたのでしょう。
認知症予防教室では、20種類のゲームをそれぞれに組み合わせますが、毎回の教室のゲームの順番は「きっかけ」の役目を果たしていると改めた思ったことでした。