東日本大震災スリーAゲームでのお見舞い訪問記 「忘れないで〜〜」の声伝達

下の記事の編集が出来ませんので、新しい記事にしました。記事のアドレスを張ったリンク先がありますので、しばらく下の記事もそのままにしますこと、お見苦しくて申し訳ありません。
写真をお目にかけたいのですが、ちょっと動きが遅いので、文章だけを掲載して、写真は別に掲載いたします。(編集担当)

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被災地では認知症が激増と国会議員の視察報告を聞いて、なんとかスリーAの「脳活性化ゲーム」で、ひととき笑って元気になっていただきたいとの念願が叶いました。6月15日に京都を出発し、仙台で一泊。翌朝7時に仙台始発の高速バスに、朝食用お弁当を持って乗り込み、「出発オーライ」で気仙沼市を目指しました。

実は私、気仙沼市は岩手県?宮城県?どちらなんだろう?気仙沼市と仙台市(こちらは宮城県としっかり知っていました)との位置関係は??などなど、地名を聞いても頼りないほどあやふやでした。

4月、5月に被災地でのパラソル喫茶バスツアー(報告済み)に、顔ぶれをかえて計3回参加した時とは全く違う活動でした。

宮城県気仙沼市で被災されて避難所生活もされ、今は気仙沼にある百ヶ所近い仮設住宅のうちの25ヶ所、個人宅100軒をボランティアで支援されている村上充さまと、対話法研究所の活動を各地で展開しておられる群馬県桐生市在住の浅野さま、お二方の縁繋がりで実現した今回のスリーA方式認知症予防ゲームでの「笑って元気に」を持ち込むボランティア活動です。このスタイルは初体験で、逸る気持を抑えて、気仙沼市にある仮設住宅の一つ「反松公園仮設住宅」に伺いました。

子どもから90歳までの方が参加してくださって、スリーA方式の脳活性化ゲームを皆さん一緒に体験していただきました。

インターネットとはとてつもなく不思議なものです。気仙沼市⇔群馬県桐生市⇔京都府宇治市⇔八幡市を瞬時に結び、準備段階では全ての打ち合わせはメールのやり取り、それぞれのブログやホームページで思いも感じ取れ信頼関係も出来ていて、初対面とも思えない懐かしい方にお会いした気分でした。

仙台で浅野さま、気仙沼では当日は過密スケジュールの村上さまに代わって地域のボランティアセンター代表のKさまに、気仙沼港の被災地案内とその状況の説明をしていただきました。
村上さまとはその後、反松公園仮設住宅でお目にかかりました。

今回のボランティア旅の途中で
「被災地が忘れ去られていることをひしひしと感じるから、被災地を見てほしい、京都に帰ったら、この状況を伝えて欲しい、忘れないで欲しい〜」
と、仮設住宅でも仙台でも何人もの方から言付かりました。それで、見たこと感じたことを漏れないようにブログで発信します。長くなりそうですが、読んでください。

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気仙沼港(Kさまの案内)

「波がこの辺りまで上がってきた」という場所は港からずいぶん高いところ。湾には、船着場、魚の水揚げ場、魚介類の加工場、魚市場などが被災されたそのままで解体を待っている姿がまだ多く見受けられました。
少し平坦な場所には関連の工場、住宅があったようですがそれは土台の敷石を残した状態で瓦礫などは撤去されていました。
ビックリした… それは350トンとお聞きした漁船が打ち上げられたままの状態で置かれていました。3・11当日は無数の船という船が波に乗って陸に打ち上げられて、建物にぶつかりながら、陸に上がってきたそうです。

打ち上げられた船のすぐ山側には電車が走っていて、南気仙沼駅があり駅も線路も波を被ったそうです。元の面影はありませんでした。

車で案内していただいたのですが、主な道路がいち早く復旧され支援品その他の物資が運ばれたそうです。走りながらの車窓の風景は・・・多くの港は所狭しと立ち並んだ家々が見えますが・・・気仙沼港は何にもなく、大きな建物の骨格を残したままの景色でした。

気仙沼港では、油のタンクや船のオイルが漏れて火の手が上がり、三日間燃え続けたとのことでした。自宅の二階や屋根の上で助かった方々からは、「その火が迫ってくるのが怖かった」との話も有りました。

港近くに洒落た大きな建物は高齢者施設で、多くの方々が犠牲になったそうです。

逃げようとして自家用車に乗ったまま犠牲になられた方々も多く、波が来るのが早かったようです。車に乗るより二階だと助かった可能性もあるとも伺いましたが・・・。

案内してくださった方もご両親を亡くされていて、3・11当日から4日間たってやっと奥様との再会だったと伺いました。道路には船、車、壊れた家などなどで、自宅の場所に行き着けなかったそうです。

色々な被災状況を聴かせて頂き、うちのめされる気持で、言葉は出ませんでした。いま、自分が立っているこの場所は、当日此処には・・・と考えて身震いがしました。大きな船が打ち上げられてそのままの場所には、気仙沼市の立て看板があり
「多くの被災者の方々に配慮してくださいますように」
と書かれていました。

「復興屋台村」の看板はニュースにも出ていて知ってはいましたが、現在、土日には賑わうが、平日は閑散としているとのこと。港に近かった住民はほとんど仮設住宅に仮住いされているのですから。ただ、波が1階だけに来たという家は修理をされて住まわれている、港に近い山の手に少数ありました。

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案内してくださった方の自宅跡地に連れて行ってくださいました。そこには玄関前の敷石と建物の土台石があり、彼はすぐさま手を合わされて、続いて私たちもお祈りしました。此処が玄関でした、二階に上がって波に備えようと奥様がご両親に強く勧められたそうですが、私たちは此処に居ると動かなかったそうです。そのうち波が押し寄せてきて奥様はカーテンにつかまり奇跡的に助かり、ご両親は何日か後に瓦礫の下から見つけられたそうです。奥様はずぶぬれのまま二階で救助を待ち、ヘリコプターで救助され病院に搬送された…。その奥様との再会は四日後だったそうです。一人娘は結婚して他の町に居たので大丈夫だったと話す笑顔が印象的でした。

この辺りは、4mの嵩上げ(土盛)をする計画なんだが、いつ始まるのやら、盛って何年もしなきゃ家は建てられないし、なんも見通しがつかないし、嵩上げで大丈夫なんだろうか?高い防波堤を作るらしいが、海が見えないとチリ地震のときのような海の様子が見えないから却ってキケンだと思うんだが〜何処かの町では10mの防波堤があり、安心していたらそれ以上の波が来て大変だったと聞いているなどもお聞きしました。

隣家には若い男性が車椅子だったのでその方を車に乗せて、避難途中にそのまま流され、7人家族中5名が亡くなったそうです。勤務中の主人・息子・娘などはどうにか助かり、自宅のお年寄り、体の不自由な方々の避難にはやはり時間がかかり歩いて逃げられない方々は、車の渋滞で波に巻き込まれたことも多くあったようです。車で逃げずに二階に避難していれば〜との呟きも聞かれましたが〜〜

港の瓦礫置き場には数え切れない車が積み重ねられたのを目にしました。

港の波の音が聞こえる場所にあるお宅の敷地に、ボランティアセンターの方々がひまわりの種をまいたところがあり、沢山の芽が顔を出していました。工場や家の跡地のあちこちには、野の草(雑草)だけは元気に青々と育っていました。きっとひまわりも地元の方々へ元気を届けてくれるように大きな花を咲かせてくれるでしょう。

気仙沼港は細長くて向こう岸に行っても、反対側の建物が見通せて、その海側に「大島」があるそうです。こんな細い湾だからなのか、大きな津波になったとも聞きました。これがリアス式海岸なのでしょうか?

岩手県の海岸はリアス式海岸が多く、その終わりが気仙沼港のようで、気仙沼市は岩手県とは県境、気仙町、陸前高田市などがお隣です。

港の最後は、魚市場・・・港の岸壁に立っているのですが、海側は地盤沈下があり、いま大型クレーンでの復旧作業が行われていました。その場所は曲がりくねったガードレールのような鉄板が多数、市場と海中との間に置かれていて、まだまだ復興に時間がかかりそうな気配です。

魚を運ぶための箱は真新しく積み上げられていました。地震の時には全部流されてしまったそうです。看板の「氷の水族館」だけが残った魚市場、「男山」との看板のお酒屋さん。それらの歴史がなくなってしまうのです。

ここでも私たちは言葉もなく立ちすくんでしまいました。

魚の市場
ボランティアセンターの事務所のある魚の市場に行きました。
復興を願い、大阪の子どもたちからのメッセージがクリスマスツリーのように飾られていました。新鮮な魚たち、加工品などが所狭しと並んでいました。「ほや」「牡蠣」「ほたて貝」も並んでいました。

ボランティアセンターに応援に来ている兵庫県の方にも出会い、港を案内してくださったKさんは私の住む八幡市の隣町、大阪府枚方市の病院に5月に講演に来られたことも知りました。

いよいよ反松公園仮設住宅へ参ります。
ここからは「仮設住宅でのスリーA予防ゲーム」を新しく次の記事にします。

東日本大震災を忘れないで・・・との被災に遭った方々の想いを少しでもくんでいただければ幸いです。
(運営委員 福井恵子)