東松島東名・野蒜駅見聞とひびき工業団地仮設住宅交流

東日本大震災復興支援パラソル喫茶応援バスツァー(2012年12月9日)

仙石線の(仙台→東名駅・野蒜駅→石巻へ)東名・野蒜駅

前夜に降り積もった雪が被災地を覆い3・11のことを隠していて何事もなかったような顔でした。雪はそのようないたずらをするのかと驚きました。説明を聞かないと、津波跡が判りませんでした。

・東名駅と並行して運河があり東名駅側の海と、野蒜駅側の川に繋がっています。運河の海側は干拓地で田んぼだったのです。その干拓地の向こうに海がありました。運河の水門は二か所、野蒜駅近くの水門は県管轄、東名駅近くの水門は国の管轄で、県管轄の水門は開かれ、国の管轄の水門は閉められていました。

川から遡上した津波は野蒜駅付近の開かれた水門を通って、東名駅横を通り閉められた水門にぶつかり、海からの津波とぶつかって、東名駅付近に大きな被害をもたらしました。

参考…この被災状況は「日本旅行地図帳 東日本大震災の記録」として被害に遭った駅中心に、インターネットに写真が掲載されています。編集長の話も見られますのでご参考までに。

・野蒜駅の駅舎は残り、駅舎の前ですみちゃん他の語り部たちは、東名・野蒜駅を見学に来る方たちに、復興支援の感謝を「パラソル喫茶」として、写真をみせながら大震災の津波被害の“語り部活動”をされている。珈琲やお茶、生姜湯が準備されていて、カンパ箱が置かれていました。

・東名地区では古くから津波の経験がなくてお年寄りは逃げる気持ちはなかったそうです。第一波の津波がひいた後は、ごつごつした海の底の岩が見えたが、それをお年寄りは「様子を見ようか?」と呑気なことを言っていたとのこと。

・運河の海側の田んぼだったところは、地盤は1m沈下して浸水して、いまでも沈下しているように感じます。大震災の語り部でパラソル喫茶をされているグループホーム主宰者すみちゃん。

注…2012年3月に私たちが同じバスツァーで訪れた時には、浸水はなくて、5月には満潮なのか?と聞いたところ、沈下が進んでいる、今回はそれ以上で初めて参加の方はこんなに近くに海があると思われました。

・震災直後には干拓地のお墓が見えていたのに、今では見えなくなってきている…、水没したお墓もある…
・元田んぼの浸水ケ所が、強風で「ぴっちゃんぴっちゃん波打っていたのを見たときにはぞ〜〜っとした」由。
・野蒜駅のトイレに予算がついたので、次回訪問時には使用できるかもしれない、とのこと。
・駅舎の1階部分を、仮設に入っているお母さん方が作った小物類を販売する場所にしたいというご希望。
・駅舎の内側に入った暖かいところでパラソル喫茶でのおもてなしをできたらいいが…
・大変な状況の中、ご自分を励ますように話される語り部すみちゃんの姿に感動。

ひびき工業団地仮設住宅での交流

パラソルツアー参加者20名が3班に分かれ、住民が牛丼を作り私たちはワンコインで頂き、その後、室内喫茶で交流(牛丼の材料費はパラソル喫茶主催者市民協が持参した寄付金から支出し、売り上げは作った住民たちへ還元される)

・牛丼を作る方は3名、男性は会計など、手分けしてボランティアでお手伝い。
・牛丼は、住民には100円で販売されました。
・出足が悪いと感じた方が、声をかけに住宅をひと回り走られました。
・「いま、聞いたの、知らなかった〜」と買いに来られた方たち。
・お食事の後に「喫茶にきてください」と声をかけました。牛丼を家において直ぐに珈琲を頂きに来たとお二人連れもおあれて… パラソル喫茶が定着したよう。
・談話室の隣にいるのに、今まで知らなかったと嬉しそうに炬燵に入り、話してくれる高齢者
・自然に津波被災の当日のことを話せるようになったと…
・まだ上を向きながら涙が滲みだしたのを抑えるように話す方もおられ、記憶はまだまだ新しい…
・同じ住宅に住んでいても、集会場で初めて出会う方々、緊張感はなく打ち解けて話しだされる…
・私は出発直後の7日の地震で緊張が走ったが、土地の方は
「ここ数年は大きい地震が来ると聞かされていて、地震には慣れっこだったが、その後の津波警報には鳥肌が立ち、震えが止まらなかった…この高台まで津波は来ないのに〜」と笑われました。

・3・11当日は、体の調子が悪くて家で休んでいた、地震には慣れていて地震対策をしていたのに、物が落ちる地震は初めてだった、表に出てしばらく居たら、波しぶきが見えたので慌てて「2階さあがれ〜 かあちゃん!」と何度も叫んだ、自分は長靴を片手に、携帯を握りしめ2階に上がり、津波の一部始終を見、父の形見のカメラで写真も撮った、と。
・2階に上がって、両隣の一人暮らしの二人が気になり、大声で大丈夫か叫んだが、片方の隣の飼い犬が大屋根の上で盛んに吠えていた…
・両隣ともに裏の家に避難・娘のところに行っていて助かり、ほっと安心した、とのこと。
・当日撮った写真を見せていただきながら話も聞ききました。
・避難する時には、マジックインクで玄関前に「〇〇、〇〇自分たちは無事・△△避難先」を記して避難した…何故、そのような冷静な自分が居たのか判らない…
・家を流されはしなかったが全壊扱いで壊された…
・玄関から津波で流されて他の人の家財などいろんなものが入ってくる!
・周りの家は流されたが、何故だか家だけは流されなかったのが不思議だと自衛隊の人も言っていたが、屋根の上にブルーシートを掛けてくれた。だが、海からの風がまともにあたり、何度もかけ直してくれたが、パラシュートみたいに家の裏に飛んでいった。
・お寺に避難したが、避難所でないので、そこに避難した名簿が掲載されなかった。
・東京から甥と妹が、玄関に張り出した「生きている・避難場所」を書いた木片を握りしめ手の震えが止まらない妹と出会った… その木片は持ってきたら駄目じゃないのと思いながら、甥を写メしていた…
・妹たちが来るのが遅いと感じていたが、写メした日付けを見るとたったの三日目だとあとで判った… そんな状況で写メをしていたのも不思議と。

・A4サイズの当日の写真や、その後の様子の写真を見せながら涙ながらに話す元自治会長
・奥様と避難してほっとしてまもなく、犬を連れて避難した方をみて、奥様が居なくなった
・それっきり帰らない奥さまはまだ見つからない…
・奥様の最後の姿を見た方の話しから諦められた… 避難する人と反対に歩いていた奥様に、何処へ行くのか聞くと、犬を連れに家に帰ると言うので、津波が来るのに帰っては駄目だ避難所に一緒に行こうと言ったが、家の方に向かった…
・自衛隊員が作業終了したときに感謝をこめて、握手を一人一人とした、その中の一人が「野蒜のおじさん?」北海道部隊の自衛隊員の甥だった、あの感激は忘れられない
・昨年のゴーヤの苗から始まり、パラソル喫茶を何度もやり、出にくくなっていたお年寄りが出てくるようになり、支援バスツァーのお陰さま、と言われた。

・元自治会長さんのまだ見つからない奥さまの話を聞いた同じ住民は「まだまだ上があるんだね〜 私は家を流されただけで、自分だけが一番辛いと感じていたが」

以上、メモ帳を頼りの報告でした。
写真も何枚かありますので続報として、主催者・参加者のコメントと私なりのコメントを書く予定です(3月には写真を掲載すると書きながら、アップしていないと友人から叱られましたので、必ず…!)

 認知症予防ネット運営委員 福井恵子2012.12.11