いつものようにRがHの家に遊びに行ったある日。
Rは「ピアノ弾いていい?」とHの母のYに聞きました。
Yは「いいよ」と仕事の手を休めないまま軽く答えました。

ところが、Rが弾き始めると、Yは仕事の手を休め、Rの後姿を食い入るように見ています。
Rは気持ちよさそうに弾いていました。
その頃流行していたポップスの曲です。

弾き終わると、すっきりした!と、Rはピアノを閉めました。
Yは我に返り、Rに声をかけました。
「上手ね、R。びっくりしちゃった。先生はどなた?」
Rは急に表情をこわばらせて、「ピアノは嫌いだし、もうやめた」とひとこと。
「やめたって、なんで?こんなに上手なのに」とRを追いかけて聞くY。
しかしRは、「発表会に出たくないから」と投げやりに吐き捨てました。

いつものYならこれ以上聞かなかったでしょう。
Rがピアノに関しての会話を好んでいないことは誰が見ても明らかだったからです。
でも、Yは聞いてしまったのです。
「なんで・・・?」

それには訳がありました。
Yは、幼い頃から「ピアノの天才」と言われた少女だったのです。
有名な師匠の一番弟子までの位置につき、どこの音大でもストレートで入れると
師匠から太鼓判を押されているほどの腕前でした。
でも、Yは、自分の才能が本物ではないと悟った18歳、そう大学受験目前で、
突然ピアノをやめました。
「才能がない」ことを悟ったのではなく、広い世界で、自分の可能性を試す勇気がなかったのでした。
Yが自分でそのことに気づいたのは、ピアノをやめてから随分経ってからで、
自らの手で自分の可能性を閉じたことを、とても悔やんでいました。
音大に進学し、その後ピアノで生計を立てている友達に嫉妬を感じ、
嫉妬を感じる自分にまた落ち込む・・・
何十年経っても、自分の選択ミスを、悔やんでも悔やみきれないでいたYでした。

Rの腕前は、そんなYに久々に感動を呼び起こしました。
「こんなに上手な小学生は見たことがない!」
譜面も見ず、即興で、耳に残る音を、思いつきのままに弾いていたRには、
間違いなく「天才」と言える潜在能力があるとYは感じたのです。
テクニックも小学生とは思えないほど鍛えられていました。

それなのに、なんでRはこんなに不機嫌なの?
なぜ「嫌い」なんて言うの?
Yの「なんで?」という質問に、観念したRが話し始めました。

(つづく)