『魂の殺人』を再考してみます。
<性的に搾取されること>とは、「魂を殺害されるに相当すること」という意味なのですが、
前回の記事では、私はこの表現があまり好きではないと書きました。
この記事を書いた直後、その気持ちが微妙に変化することに直面することになり、
今一度再考したいと思います。
私は、この言葉には、3つの意味があると考えます。
一つ目は、性的に搾取されることがあまりに軽視されている社会に対して、
被害を受けた人の心の痛みなどの現実を知らしめるため。
二つ目は、加害者に対して、「被害者は、たとえ生命は維持できていたとしても
あなたのとった行動によって、魂が殺害されるほど傷ついた」と知らしめるため。
三つ目は、性的に搾取された人に、「あなたが受けた行為は、あなたの魂を深く傷つける
ことだったのだよ」と知らしめるため。
1つ目は、今、少し世間でも認識ができ始めたように思いますが、でも、まだまだです。
2つ目は、残念ながら、加害者にはその認識が欠如していることが多いです。
加害者に被害者の苦しみを理解させることは、非常に困難です。
ですから、新たな加害者を生まないために、予防教育でこの言葉を使用することは
効果的かもしれません。
今回再考したのは、3つ目です。
被害者は被害を受けたことさえも、分かっていないことが多々あります。
特に子どもの場合です。
子どもが性暴力の被害に遭う場合、加害者は親、教師、友達など、
子どもにとって、本来信頼している関係・場所で起こります。
身体的暴力が伴うことも少なく、親や教師から言葉巧みに、「愛情」にすりかえられるか、
あるいは友達同士の「遊び」「ふざけ」の中で起こることが多いからです。
その被害を受けた人に対しても、「あなたの受けた行為は、とってもひどいことなんだよ」と
誰かがそっと語りかけることも、やはり必要ではないか、そう思うに至りました。
しかし、そのことが、被害者にとっては、暴力的に自らの心の痛みに直面させられることに
なることを、語りかける側の人間は分かっていなければならないでしょう。
その際にも、語りかける側に「魂を殺害する」ほどの威力がある行為に直面させる、
という覚悟と慎重さが必要だと思います。
つまり、①被害者に対して自らの身に起こっていることに直面させるために、
②被害者に被害へ直面させる周囲の人に対して慎重かつ重大さを認識させるために、
やはり「魂の殺人」は必要な言葉ではないか、ということです。
そして、<再考>した後に、もう一度心に浮かんだことは、「魂の殺人」という表現は、
やはり好きではないですね。
性的に搾取することは「魂の殺人」に相当する行為なのだ!という、あくまで比喩であって、
実際には心の傷は恢復するし、恢復すると信じる人でないと、性暴力を受けた人を
ケアやサポートすることはできません。
(だからと言って、性的に搾取することはそう悪いことではない、という意味ではありません。
加害者は絶対に悪く、その行為は許されるものではありません!)
どんなに信頼していた人から、言葉巧みに、長期間にわたって性的に搾取され続けたとしても、
魂の輝きまでを奪われることは、絶対にない!
私はそう信じています。