前回の記事にも書きましたが、
私は、事故、災害で、大切な人を突然奪われることを、人生のうちに3回経験しました。

これまで、自分の経験を人前で語ることは、一切しませんでした。
職業柄「自分を語ること」をご法度と教えられてきたからです。

でも、その「ご法度」を破ることを、昨年にしちゃいました(%ニヤ女%)

昨年の11月に、神戸で行われた弁護士会主催の「子どもの人権研究会」に招かれて、
事件、事故の被害者の支援をしている立場で、
「被害者と加害者の対話」について話をすることになり、
事前の話し合いで、他のパネリストの方にも相談して、私の経験を話しました。
話した理由は、
自分が『遺族』であることに触れずに、たくさんのご遺族の方々を前に
専門家としての立場だけで話をするのは、失礼だと思ったからです。

「専門家」は、望んでいるわけではありませんし、決して意図的ではないのですが、
上から物を言わなければなりません。
その立場が、その日ほど邪魔だなぁと思ったことはありませんでした。
私の話を、そこに居合わせた多くの弁護士の方はもちろん、
事件や事故でかけがえのないお子さんを亡くされた方々が、
あたたかく受け入れてくださいました。

その日、私は、ずっと抱えてきた『遺族』という荷物が、
少し軽くなったような気がしています。

『被害者』『遺族』は、ある日突然、その立場にされます。
その日から、日常がすべて奪われます。
何もかもが、ひっくり返ってしまいます。
大切な存在を失ったことを、悲しむ余裕さえも奪われます。
相手方(加害者)はたいてい、二度三度傷つけることをしてきます。
ご近所や友人が、その人はそんな気がないかもしれませんが、突き刺さるような言葉を言います。
「そんな気がない」人からの言葉ほど、奥深くに突き刺さるものかもしれません。
そのため、人間関係も、崩れていきます。
事件や事故が報道されれば、マスコミに翻弄され、長期にわたり日常生活を破壊されます。

これらの、その後周囲から受ける様々な態度と言葉と現象によって、
自分の身に起こったこと、失った存在を十分に悲しめないのが、
実は、後々、長く大きく、心の負担となります。

JR列車事故で負傷された方、家族がお亡くなりになられた遺族の方々とお話していて、
同じようなことで苦しんでいる方がたくさんいらっしゃいました。
少しでも、「悲しめる時間」をとれますように・・・
追悼メモリアルが、そんな時間の提供になったのではないかと想像しています。

◇◇◇

つい先日、理事のMさんから
「桜が咲き始める頃になったらいつも調子悪いよな」と言われました。
誰にも、その片鱗さえ見せていないとわたし本人は思っていたけれど、気づいてたんだ。
そんな何気ない仲間のひとことが、長年の「荷物」を軽くしてくれます。

「何もできないかもしれないけれど、わたしはあなたをいつも見ているよ」
「あなたの悲しみは想像しかできないけれど、あなたが悲しいことはわたしもとても悲しいよ」

そんな思いが、大切な人を失った人に対する、何よりの支援かもしれません。

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事件や事故で、大切な人を失った方々へ
〜少し先をゆく者として〜

 『遺族』という荷物は、生涯なくならないかもしれません。
 でも、自分に起こったことの意味を、自分なりに理解できる時は必ず来ます。
 何年、何十年かかるかはわかりません。
 必ず、笑顔で、失った大切な人を、思い出せる時が訪れます。
 どうぞ、その日を信じて・・・(%星%)(%星%)(%星%)