家族内での傷害・殺人事件が続いています。

「なぜ?」
そんな思いが、日本国中を駆け巡っているようです。

犯人とされる人物の器質や人格、家庭環境は、ある程度は分析可能でしょう。
そして、その多くが裁判で明らかにされるようです。
その内容の一部が、新聞やテレビで一般に知らされることになります。

しかし、その人物が「なぜ」「そのときに」「そのような行為」をしたのか、
その全貌が明らかになることは、おそらくないのではないでしょうか。
なぜなら、今、右手が唇を触っている、何気なく足を触った、自分の体の動きの一部始終を
説明できる人はいないと思います。
人間は、その行動の大半を、無意識で行っているからです。

そして、一人の人間のすべてを、分析してその行動を解明することは、
今の科学ではできないからです。

それでもなお、私たちは、その人物の「人物像」と「行動の意味」を知りたい衝動にかられるようです。
なぜ知りたいのでしょうか?
知りたい動機を、私たち一人ひとりが深く考えてみる機会があってもいいのではないでしょうか。

講演会や取材で事件や事件の人物像について質問されたとき、
私は反対に質問された方にお尋ねします。
「何がお知りになりたいのでしょうか?」
すると、「わが子が被害を受けないように」「わが子も加害者になるのではないか」と
ほとんどの方が、事件を他人事と思えず、明日わが身にふりかかるのではないかと
予期不安を抱えておられることがわかります。

「対岸の火事」と傍観的に興味を持つ人もたくさんいらっしゃると思いますが、
特に子育て中の親は、少年事件や子どもが巻き込まれる事件が起こると、
とても不安に思うようです。

その不安が「なぜあんなことしたの?」「どうしてあの事件は起こったの?」
「わが子は被害に遭わない?」「わが子もあんなことするんじゃない?」
「わたしの育て方が悪いのじゃない?」
などと連鎖的に感じてしまうようです。

Mr.Childlen が『タガタメ』で次のように歌っています。
 
 「子どもらを被害者にも加害者にもせずに
 この街で暮らすためにまず何をすべきだろう?
 でももしも被害者に加害者になったとき
 かろうじてできることは
 相変わらず性懲りもなく
 愛すこと以外にない・・・」

私が20歳の頃、何度も読んだヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を
思い起こすフレーズが並んでいる歌です。

大切な人が不幸な出来事に遭遇することなく見守ることがもっとも良いのでしょうが、
その人に何があっても、最後まで見守る。
それが親、家族、パートナーができる、最低でそして最大のことである。
ミスチルは、そう歌っているのではないでしょうか。

(%音符1%)相変わらず性懲りもなく愛すこと以外にない(%音符2%)

ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の解説に、訳者の大久保康雄さんが次のように書いておられます。

 「ヘミングウェイは、人間は結局孤独のまま世界がおのれに課する運命に耐えなければ
 ならないのだという彼の根本的なイデーを変更することなく、そのなかに他の人間的、
 積極的な感情−恋愛を、同士愛を、そして世界全体への献身を、この作品で築きあげた
 のである」
 
 「ゆえに問うなかれ、誰がために鐘がなるやと、そは汝がために鳴るなれば」 ジョン・ダン