『花は咲く』にみる 生者と死者の語り

(写真)東日本大震災から1ヵ月後、津波で流された自宅跡に立ち、家族を奪った海に向かってトランペットを吹いた後涙ぐむ17歳の少女
岩手県陸前高田市
 ヴェルデ・リーガ が初めて東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」を歌ったのは、2013(平成25)年2月28日、緑台中学校合唱コンクールに特別出演した舞台だった。
 以来、地元の介護施設、保育園、自治会館で歌ってきた。記憶に新しいのは、2016(平成28)年5月29日、豊能混声ユーベルコールとのジョイントコンサート。そして同年10月2日、イオンモール猪名川でのライブコンサート。
 「花は咲く」の歌詞は、津波にさらわれた人と残った人、海に消えた人からの声と生き残った人の無念さと未来への思いが交差する様を描く。楽譜を渡されたとき、そこに書かれた歌詞の全体像がはっきりと読み取れなかった。
 被災地へ行ったこともなく、釈然としないまま歌い続けてきた。そこで、「花は咲く」の歌詞の理解を深めるのにお役に立つのではと、朝日新聞に掲載された記事を次に紹介させていただく。

(写真)津波によって浸水した仙台市宮城野区
撮影:2011年3月12日
 『花は咲く』にみる 生者と死者の語り
山形 孝夫・宗教人類学者
1932年生まれ、仙台市在住。宮城学院女子大名誉教授
著書に「死者と生者のラスト・サパー」など
2013(平成25)年3月12日付け朝日新聞より引用

 東日本大震災から2年たったいま、NHKで流れる「花は咲く」が広く歌われている。春の甲子園の入場行進にも選ばれたという。東北ゆかりの俳優や歌手が、ガーベラの花を手に、ひとりひとり祈るように歌ってる。
 はじめて心にとめたのは、人っ子ひとり見えない海辺の被災地にポツンと取り残されたように立っている小学校の前に佇んでいた時であった。どこからか風にのってこの歌が聞こえてきた。「花は花は、花は咲く、わたしは何を残しただろう・・・」。不思議な歌だと私は思った。
 後日DVDを入手して、死と生に引き裂かれた愛し合うふたりの、噴きこぼれるような悲しみの歌であることを知った。残された者が歌う。「叶えたい夢もあった、変わりたい自分もいた、今はただなつかしい、あの人を思い出す」
 不思議なのはそこから先だ。「誰かの歌が聞こえる」という。それが誰かを励ましている。笑顔も見える。いったい励ましているのは誰なのか。歌い手は「花は花は、花は咲く、わたしは何を残しただろう」と繰り返し、余韻を残して消えていく。歌っているのは死者ではないか。

(写真)津波によって破壊された岩手県大船渡市の中心部
撮影:2011年3月15日
「解かれたタブー」
 思い起こせば、震災前、日本中を席巻した「千の風になって」の主人公も死者だった。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」と歌っていた。宗教への新しい知の挑戦であるかのようにテノール歌手の透明な声が響き渡った。坊さんが気を悪くするのも無理はない。それは近代仏教がタブーとして封印してきた「死者の語り」であったのだから。
 なぜ封印されたのか。「死者の語り」は平穏な社会秩序をおびやかす呪いや亡霊の怨嗟の声とみなされたからである。

(写真)津波で破壊された岩手県陸前高田市小友町
 記録をたどると、かつて平家物語を語って歩いた琵琶法師の存在が浮かぶ。滅亡した平氏の無念を語り、やがて仏教界から追われていった盲目の僧である。近代の戦争では戦死者は等しく愛国者として顕彰され、死者の無念が語られることはなかった。
 私が驚いたのは、そうした「死者の語り」が「花は咲く」に再び顔を出していることであった。死者に対するイメージが変化しつつあるのか。散骨や樹木葬など葬送儀礼が多様化し、死者への恐怖が薄れてきていた。そこに大震災が起きた。死者を記憶し、死者と共に未来に向かって生きていく、そうした変化が起こりつつあるさなかであった。

(写真)被災から1週間後の岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里駅周辺
「声にならない声」
 被災地には、ひとには明かし得ない無念の思いが、黒い海の記憶とひとつになって忘却の時を待っている。生者も死者も待っている。言いたいことが山ほどある。「ごめんね、ママが助けてあげられなくてごめんね」。母親たちの声にならない声である。その呼びかけに答えられるのは誰か。「大丈夫だよママ、ごめんね、ずっとママを見守っていくからね」
 こうした生者と死者の「語り」が「花は咲く」にはおおらかに歌いあげられている。それが涙をさそうのだ。だがそれは悲しみの涙ではない。死者と共に未来へ向かう優しい希望の涙のようなのだ。そこにこの歌の不思議な魅力がある。