「ヴェルデ・リーガたより」第11号
発行:2009(平成21)年12月10日
●活動状況と今後の予定
 10月28日のすみれ会での演奏会と11月1日のグリーンフェスタでの発表会と二つの行事が続きました。皆さんご苦労様でした。日頃の成果が十分出し切れなかった点もありましたが、地域の皆さんには喜んでいただけたのではと思います。
 あるオリンピック選手が、「本番で100%の力を出すには200%以上の練習をししないと達成できない」と語っていました。我々のコーラスにも当てはまる言葉だと思います。年が明けると緑中の合唱コンクールが予定されています。準備怠りのないよう練習しましょう。

(写真)名港西大橋・名古屋市港区—->
●ヴェルデ サロン(団員の自由ページ)
・『私と音楽』
 ソプラノ 藤堂伴子
 私と音楽とのかかわりは物心がつく前からだと思います。それは素人ながら歌の好きな母が、縫物をしながら童謡を歌い、その横に私が座り、一緒に歌っていたことが始まりです。このことは私の記憶にはほとんどなく、母から聞いて分かっていることです。ただ、童謡の絵本をめくっていた光景と、「雨降りお月」の暗い挿絵が嫌いで、そのページを飛ばしていたのははっきり覚えています。
 そして、幼稚園に通っている頃、東京芸大出身の園長先生にピアノを習っている小学生を見て、習いたいと言い出し、当時高価だったピアノを買ってもらい、早速習い始めました。その先生には、「こんな神経質な子は長く続くかどうか分からない」と言われながらも、今日に至るまで続いています。「音楽」とのかかわりは、切っても切れないぐらい密接なものとなりました。また、音楽を通して幅広い年齢層の大勢の方潟との出会いもたくさんありました。

(写真)木津川に架かる上津屋橋・京都府久世郡久御山町—> 
 仕事としての音楽・ピアノは別として、歌は、中学・高校時代は合唱部(混声合唱)に入り、受験前から大学時代は、副科として声楽、母親となってからはお母さんコーラス(ふらうえんこーる)で女声合唱、そして現在の混声合唱という経過をたどってきました。
 中学時代は文化祭でオペレッタをしました。高校時代はコンサートの他に、4校合同合唱祭もあり、「ハレルヤ」、「遥かな友に」などはよく歌いました。4校で歌う「ハレルヤ」は圧巻でした。「ふらうえん」の時は、緑中の先生方と一緒に音楽室でコンサートを開いたこともいい思い出です。
 混声合唱をまた始めた現在、混声合唱の重厚なハーモニーを思い出しながら、楽しく歌っています。ただ若い頃とは違い、暗譜は少々大変です。大きな声を出すことで普段のストレスも発散でき、森本先生はじめメンバーの方々からエネルギーをいただいて帰っています。
 コンサートや演奏会には参加できない時もあり、ご迷惑をおかけしていますが、皆様今後ともよろしくお願い致します。

(写真)餘部橋梁・兵庫県美方郡香美町香住—->
・『僕と音楽』
 バス 福原俊治
 初めて投稿させていただきます。ただ音楽とのかかわりは少なく、自己紹介を兼ねて書きました。東京オリンピックの頃に某電力会社に入り入社当初は現場に配属。今とは違って時間から時間まで。時間外が暇で、その頃友人に誘われ、民青(民主青年同盟)のサークルで歌ったのが最初で、数カ月通いました。そのうちに真の目的である民青同盟員になることを勧められたので、サークルを脱会しました。
 せっかく歌い出したのだからと、次にYMCAの金曜コーラスを見学しました。チャペルで歌う賛美歌のハーモニーに魅せられ、すぐに入れてもらいました。賛美歌はほとんどの曲が同じようなリズムと、ゆっくりしたテンポで、歌いやすかったのをおぼえています。その後、気楽な現場業務を離れ、設計部門に移りました。残業、残業で歌どころではなくなり賛美歌もやめました。

(写真)松江市八束町からの江島大橋、対岸は境港市街
 定年を迎え、出向での定年延長の話もありましたが、やりたいこともありましたので完全失業を選びました。しかし、何をしてよいか時間を持て余していました。若い頃我流でいじっていたギターを習い始めました。
 今は月1回老人ホームを訪ねての演奏会や年に数回のコンサートを楽しんでいます。昔から好奇心が強くスキー、スケート、テニスなど、何にでも挑戦しましたがすべて中途半端。そんな性格のため、定年後5年たった今、月曜日以外すべて予定が埋まるようになりました。
 この会に入れていただいたのも、木曜日のクラブを事情があって辞めたためインターネットの公民館活動を見てヴェルデ・リーガの活動を知ったからです。不謹慎な入会の動機で申し訳ありません。まだまだ団員の一人にはほど遠いのですが、早く堂々と歌えるように頑張りますのでよろしくご指導願います。