「ヴェルデ・リーガたより」第5号
発行:2008(平成20)年2月14日
●活動状況と今後の予定
2月29日は緑台中学の合唱祭です。ヴェルテ・゛リーガとしては2回目の参加となります。立春も過ぎたとはいえ、まだまだ寒い日が続きますが、風邪など体調維持には十分注意して、全員で元気に参加したいものです。
当日は直前練習(声出し)も予定されていますので、集合時間にご注意願います。3月は年度末のため、公民館の使用が難しく、練習場所が例月とは異なりますので注意してください。
(写真)フランクフルト国際空港——>
●ヴェルデサロン(団員の自由ページ)
・「私と歌」
アルト 加賀山享子
「歌好き?」 これが私の入るきっかけになった言葉です。歌は好きだけど、コーラス部に入っていたことはありません。高校時代、試験の1週間前になると、クラブ活動は公式戦があるなどの例外は別として全面休みです。「早く帰宅して勉強しろ」ということです。
フォークソングが流行っていた時代でした。この時になると、ギターの上手な男子二人がギターを持ってくるのです。教室で三人が歌っていたことは、今としては本当に楽しかった思い出です。
『歌』って力を持っているなあと感じたことがあります。30歳ほど年上の知人が老人介護施設に入所され、そこへ遊びに行った時のことです。その日は歌のボランティアグループが来られる日でした。時間が来るとみんなで集会室に集まるのです。
さっきまで表情のなかった人がよく歌っていた曲になると、生き生きとして大きな声が出るのです。別人の様に楽しんでいらっしゃるのです。歌って「スゴイ!」と思いました。現在は少々落ちこぼれ気味ですが、どうぞよろしくお願いします。
(写真)ジャカルタ国際空港の出発ロビー —->
・「歌う青春 ここにあり」
テナー 久原淳功
リタイア後の唯一の趣味はゴルフだった。平成12年8月頃、OB同僚から東谷公民館に来ないかと誘いがあり、そこで初めて聞く男声コーラスの「声の響き」にすっかり魅了され、即入会しました。曲目は宇宙戦艦ヤマトだった。
さて、「私と音楽」との出会いは幼い頃。当時は戦時下にあり、ラジオから流れるドイツ国家(国の賛歌でなく軍歌?)とアドルフ・ヒットラーの叫び声、それに日本の軍歌を二つ三つ覚えたのが始まりで小学校(国民学校)で音楽の授業があったのかどうか記憶すらありません。中学では美人の先生で、習った曲はフォスターやヨーロッパ民謡などなど、よく覚えています。
戦後はすべてが貧しい時代でしたし、私の音楽もほとんどラジオから教わったものです。それは、並木路子の「赤いリンゴ」の歌から「異国の丘」や「長崎の鐘」、同年輩の美空ひばりの歌など流行歌であります。今でも当時の歌でしたら少々の前奏付で歌えます。
さて、話は始めに戻ります。男声コーラス「川西メンネルコール」に入団、トップテナーとして配属され、当初はキバリ声を張り上げていましたから、歌った後は咳は出るし、水はがぶがぶガブガブ飲むし大変でした。その後或る団体から「荒城の月」を歌ってくれとの話があり困っていたら、友人からボイストレーニングしてみたらとのアドバイスがあり、早速発声練習を始めると、何と暫くして声がドンドン変化しているではないか。
先生の褒め上手にも乗せられ、コールユーブンゲン・コンコーネ50番へとよろしく続けているうちに、いつの間にか歌う曲も変化している自分に気付きました。ナポリ民謡も好きになり、前々から観るだけのオペラもアリアならばと、相変わらずの貪欲に変わりなく自ら歌ってみようと取り組んでおります。軍歌から流行歌、コーラス、そしてカンツォーネ、オペラ(アリア)とくりゃカッコいいねえ!いつものことながら、ステージに立った後の「反省」に我が人生の若さの源があり、歌う青春ここにあり。