不登校について—「不登校再考」の講義より *8*

社会状況の変化を“勉強”に当てはめてまとめると、

七十年代を過ぎて、学校が理屈抜きで大事なものだという共通前提が崩れる

わからない事を聞いても意味があるのか、という問いが生まれ、最初に苦手だったり、つまずいたりするとすぐやめてしまう環境になる。

学力低下

という風になります。
 
 この時たとえ勉強がわからなくて苦痛でも、わからなくてもただ座っているだけでいい、という共通前提やすりこみがあればとりあえず学校には行くかもしれませんが、学校に行くことが当たり前になった頃からは子供も親も、そして社会もそれを認めません。

 講師曰く、教師の質の低下や親のしつけ以前に学校に意味を見出だせない環境が大きな要因。昔もいじめや勉強が苦手な子は多かったが、学校に行くこと自体意味があるという神話があったので、すぐ学校に行かなくなるという行動に結びつかなかった…

 さて少し見方を変えて、学校に行くことは「勉強」するだけではなく、団体生活をすることによって「社会性」が身につく、それは学校に行く「価値」や「意義」にはならないのか?という質問をされる方もいるかもしれません。

 特に現代では「生きる力」が大事だから、学校でもそれを教えることが大事だ、という話を聞いたことがあります。

 この論の一番の問題点は、「生きる力」とは何か?ということです。さらに誰がそれを定義するのか、ということも重要です。

 「社会性」というのも個人や時代によって相対的ですし、「生きる力」に至っては「愛の力」とか「長州力」のように具体的には何の力か不明で、それだけでは何が言いたいのか分かりません。

 何を以て「生きる力」とするかは、億万個の意見があるでしょうが、とりあえず生きるためには仕事をしてお金を稼ぎ、ご飯を食べることが大事だ、ということは一定の理解を得られると思うので、仕事をする力を「生きる力」と定義してみます。

 「仕事をする力」はその時、その場の主要産業の内容によって、大きく影響をうけると考えられます。

 というわけで次回は産業構造の変化について見ていきます。

さあいよいよこの連載もフィナーレが近そうです(/_;)