不登校について—「不登校再考」の講義より *10*

これまで社会状況の変化により、学校に行くことや学校の中での活動(主に勉強)に意義や意味を見つけられなくなった、ということを述べてきました。その結果学校に行くための理由として、何か楽しいこと面白いことを見つけ作ろうとする、その一つがいじめなのではないか、という考え方を見ていきたいと思います。

 遊びやゲームといじめの境界線が薄くなると、対象はだれでもよくなり、従ってその場の雰囲気で誰でも“被害者”になる可能性が出てくる。そのことによって常に子どもたちは激しい緊張と隣り合わせで学校生活を送らねばならないのではないか、ということです。

 こういった状況で前の方で取り上げた「不安におびやかされた努力」を強いられる勉強をしに学校に行くのかと思うと、想像するだけで身を引きちぎられるような気持ちになります。もちろん程度の差もあるでしょう一概には言えないでしょうが、余程運が良いいか、他にすごく幸せなことがなければやってられません。あまり講義から脱線してはいけませんが、私見では今まで挙げたような状況で学校に行くためには、意識的、無意識的に思考停止状態にしなければ難しいのではないかと感じます。*7*で取り上げた「学校に行くのが大切だ」教も現在では無理やりに学校に行く(行かせる)ための自己暗示のために使われているのではないかと推測してしまいます。

 話を戻して、講師によると昔はいじめも対立関係にあって勝者が敗者をいじめているという図式だったそうですが、今は遊びやゲーム感覚なので、あまり対立はないかわりに自尊心が傷つけられる、ということです。

 例えるなら体を少しずつ切り刻まれていく感覚というのでしょうか。

 講義の最後は教師の話でした。昔、学校が大切なものだという感覚があった時には、教師には「理屈抜きの権威」があった。今はそれがないので教師は子供と距離を詰めていこうとするので、「友達のようになる」傾向が強いそうです。これを突き詰めていくと、「友達」ならば教師もいつもいじめの被害者になるかもしれぬ不安を感じるかもしれず、時には(可能性の話ですが)いじめに加わることもありうるかもしれません。

 昔の先生は権威という下駄をはかせてもらっていたが、今の先生にはそれがないので、より困難な状況に置かれている可能性は高そうです。ただ今も昔もいじめに対処したり、いわゆるお“勉強”ではない学問や個人の信念を伝えるためには、先生(のみならず周りの全ての大人)の姿勢と惻隠の情の重要性は変わりません。といえども今の社会状況からみても今の先生の御苦労は察して余りあるものです。

 今回は最終回ということもあり、多少感傷的になってしまったのか、センチメンタルな部分も多くなってしまいましたm(__)m。この他にも情報量の変化や価値観の多様化、コミュニケーションについて等々、取りあげて結びつける話題はたくさんあるかと思いますが、一応流れは今回の講義に沿うということで、今はとりあえずここで終わりにして、また別の時に細かく論じて、それを今回の話とつなげていくという形をとっていきます。

 では次回はあとがきです。