さて今回は「基本的な教育」について考えていきたいと思います。
「基本的な教育」というと最初に思い付くのが「基礎学力」です。基本的な日本語の読み書き、計算能力、論理的思考等は、生きていく上で必要である、という考え方はそれなりに妥当なものであり、私個人もその意見には賛成です。
ただ前回述べた通り、教育は我々がどういう社会になることを望んでいるのか、ということが重要になります。そしてそういう社会にするためには、どういう人材が必要なのか、を明確にし、それを皆に伝えながら、教育システムを考え、構築していくことが必要であると考えます。
さて基礎学力に関しては、私は大事だと思いますし、その伝達のための手法として、競争意識や好奇心等、心理面を考慮することは大切だと思います。
一時期(或いは今でも)、教育において競争をなくした方が良いという考え方もあったそうですが、これには私は懐疑的です。
確かに人との競争よりも、克己心や自発性を身に付けることは大事ですが、ただ単に形式的に競争を無くしても、それらが身に付くと思うのはあまりに楽観的です。克己心や自発性を身に付けるためにはそのための訓練や経験を積むことが必要であり、競争があるかないかとの関連性さえどの位あるのかさえ定かではありません。
また、勝ち負けをつけるとそれを理由にいじめがおこる、という考え方も本末転倒だと感じます。他人が自分と立場や能力、個性が違っても戸惑わず、受け入れるマインドを育てることの方がどう考えても先決なように思われます。
たとえ自分がある場面で優位であっても謙遜する美徳、そしてより高みに向い努力出来る力を養い、そして自分がまた違う場面では人より劣ることを経験することにより、弱者の気持ちを知り、皆が他人に対し能力に関係なく尊敬の念を持てる様になれば競争の結果としていじめは起きません。
もちろん競争者は勝つ喜びや負けた時の悔しさ等を味わうでしょうが、周りの者がそして社会全体が勝者にも敗者にも尊敬の念を持ち、その努力を讃える、という感覚やイメージを共有出来るかが、競争自体がいじめの原因になるのか、それとも成長の糧となるのか、重要な影響を与えます。
皆そろってゴールさせるということは、他人との差異を認めないというメッセージを伝えることになり、違う個性を持った他人、或いは自分の中でも多様性を受け入れるということと相反します。
他人と違うといじめられるから順位をつけないという考え方もいろんな意味で的外れで、私からするとギャグにしか聞こえませんが、ただし本当に現実にそういう現象が起こる場合があるのであれば、それは順位をつけるせいではなくて、環境や教育による影響が大きい考えられるので、そこの点をまず改善することが先決でしょう。例えば私は小学校の時足が遅くて、かけっこではいつも後ろの方でした。ただ相撲は得意で大体勝っていました。別に足が遅いから、相撲が強いから、いじめられたりいじめたりしたことはありません。運よく私の周りでは他人と違うからいじめるというマインドを持った人がいなかったからかもしれませんが、そういうことを良しとしない「場の雰囲気」もありました。ただ個々人の運に任せるのではなく親や周りの大人は積極的にそういう雰囲気を創るために努力をすることの方が、形式的に順位をつけないということよりも余程大切で効果的なことだと思います。
余談ですが、他人と違うことを嫌うのは日本人の習性だ、という考え方は私は全くの見当違いであると考えます。日本人の習性と言うからには、他の国の人と比べてという意味なのでしょうが、歴史的に日本ほど他の国の文化を取り入れ、それを豊かに発展させ、今も融和的に共存させている国はあまりないと思います(あくまで相対的に見てであって、全くその傾向がないとは言いませんが)。ではなぜそういった“迷信”のごとき考えが出てきたのか気になるところですが、これはまた別の機会に取り上げ、話を戻します。
さて日本には勝負は時の運という諺があります。競争が問題なのではなく、勝った時、負けた時の認識の仕方が大切であり、さらには周りの反応や環境が重要なファクターとなってきます。例え自分の得意分野がその時見当たらなくてほとんどの競争に(運悪く)負けたり、後ろの方であったりしても周りの反応が受容的で、「勝負は時の運」的な姿勢をもって、そういう態度を示せば無意味に傷付く人もいないでしょう。
ではそういう状況を創るためには教育においてどういう風にすればいいのか考え、一つの例をあげると、まず負けた者を周りが蔑むということはカッコ悪い、醜いという考え方をしっかりと伝えることが大切であると思います。それをまず大人が範をもって示すことが肝要です。
どういう環境を作っていきたいのかということはどんな社会を我々が望むのかということにつながっています。そして今回の話を例にとると、どちらが良いか悪いかは措いておいて、例えばただ勝てばいいと思う大人が沢山いる社会を創るのか、仁義を愛する士が多く住む社会を創るのかに関して、教育は大きな影響を与えます。その前にどちらの方が望ましいかの判断は、社会の総意と決断によります。
さて今回は「基礎学力」と「競争」に目を向けてきました。「基礎学力」は「読み、書き、計算」というのが一般的な定義のようで、私もこれらは非常に重要であると考えますが、一つ気になる点は教育を考える上でこの「基礎学力」自体が「目的」となり、それをつけるためにはどうしたらいいかという「手段」が語られるということが多くなっているということです。
私はもともと「基礎学力」をつけることは人として社会を生き抜くための「手段」の一つであるとの考えを持っています(一方で、もちろん学問を深めるということは個人にとっての好奇心や探究心を満足させるためでもあり、基礎学力をつけることはそれを可能にするために必要な条件でもあるという考えも持っていますが)。従って必然的にその「基礎学力」をつけたり上げたりする方法(勉強法等)はその「手段」のための「手段」になります。もしその「基礎学力をつけること」という「手段」を「目的」にしてしまった場合結果として考えられるのは、もしそれが成功したケースでも学力は付いたけれども「何のため」なんだ?、という疑問が生まれるということです。
例えば本来生活をするための「手段」として金を稼ぐ、ということであったのが、金を稼ぐのが「目的」になってしまっては、そのために生活の他の部分に目がいかなくなる可能性が出てきます。これも「手段の目的化」の一つの例と言えるでしょう。さらに言えばこの「学力をつける」や「金を稼ぐ」が本来大きな「目的」のための「手段」であったことを忘れ(あるいは無視し)、それのみを最初から「目的」として子供に教えたならば、本来の「目的」よりももとは「手段」であったものを「目的」と思い、そういった教育を受けた人たちの中の社会に対するイメージや価値観、思考様式にも影響を与える可能性があります。
話を戻しますと本来の教育の大きな「目的」の一つは「社会を生き抜くこと」であり、社会をどう生き抜くかはそれが「どのような社会であるのか」によって変わってきます。ゆえに本文で述べている通り、教育において、将来どのような社会を目指し、そのためにはどのような人材が必要となるか、という視点が、その内容を決める上でかなりの重要性をもってきます。
では次回も引き続き「基本的な教育」についてつれづれなるままに考えてみたいと思います。