教育についてーつれづれなるままに… *4* 社会に求められる能力をつけるための前提

前回までは我々がどんな社会を望むのかということが、どんな教育システムを構築するのかを考える上で非常に重要である、と述べてきました。

 ただし我々が白紙から社会を新しくて創るわけではなく、実際には現在ある社会をそれまでの歴史や経緯を踏まえながら、皆で変えていく、という作業になります。つまり「現実」を見ながら、そこにあることからより望ましい社会を皆で構築していくことが重要となります。

 では話を教育に戻して、教育の目的の一つである社会を生き抜く人材を育てるということに関して、現在どう定義しさらにその実際はどうなのか見ていきたいと思います。

 よく言われるのが、今の教育の目的は国際社会を生き抜く人材を育てることだ、ということです。

 これはグローバル化の進んだ現状においてちょっと反論しがたい考え方だといえます。

 ただこの目標設定は(それのみでは)非常に曖昧な印象があります。

 まず“国際社会”といえども、働く場所とその内容によって求められる能力や心構えは変わってきます。

 例えば同じ世界をまわるにしても、世界で名だたる大道芸人になってまわるのと、外資系の証券会社に勤めてまわるのでは、必要とされる能力は違います。

 或いは医者という職業を選んだとしても、働く場所が日本なのか、アメリカなのか、中国なのか、北朝鮮なのかで求められる条件が若干変わってきます。

 実際に世の中で生きる(仕事をしたり、地域社会に貢献したりする等)ためには、その場にあった能力が必要ですし、そのためには教育や訓練も細分化、専門化される傾向があり、それが個人の意思や個性に沿うことが出来れば、社会にとってより効率的であり、個人にとっても満足度の高いものとなるでしょう。

 ただどこの場所でもどんな状況でも必要とされる能力もありそうです。それは考える力や学ぶ力等情報をインプットし発展させていく能力、自分の意見を外に向けはっきりと伝える能力やコミュニケーション能力、他者と友好的に付き合う力等自分の中にある情報をアウトプットし、それにより他人との関係を築いていく能力です。

 「基礎学力」は最初の考える力や学ぶ力をつける最初の段階の一つのツールであると見ても良さそうです。

 自分の意見を伝える能力やコミュニケーション能力をつけるためにも基礎学力も大事そうです。しかしその他にも必要なものがありそうです。

 私は能力を高めたり、社会にとって重要とされる行動をとるためには、その前提としてその心理的素地やモチベーションが必要であると考えます。人と友好的に付き合うことや人のためになることをすることを幸せに感じれば、能動的に人と接し話す機会も増え、コミュニケーション能力や自分の意見を言う能力も高まる可能性が上がります(もちろんそれだけではなく考える力等も関連しますが)。

 そして思考力や分析力等のインプットする能力とコミュニケーション能力等アウトプットする能力は、机の上の学問と体験的な学びを組み合わせることにより、相互作用的に上がっていくことが予想されます。

 従って例として確かに基礎学力をあげることはこの二つの能力を上げるために必要ですが、ただそれだけでは、今の社会を生き抜くためには不十分で、特に自分の意見を表現するなどのアウトプットする能力を高めることを念頭においた教育も「基本的な教育」の一つであると言えそうです。前回の最後にもふれましたが、もし現代の教育が基礎学力や偏差値を基準にした教育のみにますます偏っていくならば、教育の目的とは逆の方向、とまでは言いませんが、非常に不十分な状況になりかねません。

ただ注意しないといけない点は、確かに人と接することは様々な能力を高めるために有効な手段に見えます。しかし実際に人と接するためには、人と接したい、というモチベーションがあるかどうかがその前提となります。例えば人と接するのが大事だからといって、疲れていたりその気がない人に“無理矢理”他者と会わせようとすることは、倫理的な問題の他に、教育的な観点から見ても逆効果になる可能性もあります。

 例えば人と接することによって、傷ついて(傷つけられて)いた経験をたくさん持っていると、人に会うという行為自体が心理的に大変な負担になります。周りとしては(あるいは本人も)いかに本人が自分自身や外界(世の中)に対して少しずつプラスのイメージを持つようになれるのかを考慮にいれることが必要になると思います。人と接することやコミュニケーションをとること、カウンセリング等は一つの手段かもしれませんが、手段は手段です。

 手段をとれば良くなるのではなく、良くなるために手段をとるのが本筋です。

 能力を上げるのも同じで手段にとらわれるのではなく、個人や状況に合わせ柔軟に対処する能力が必要となります(ちなみにこれも社会を生き抜くための力の一つのようです)。

 私自身も元々内向的な面もありますが、今は毎日外に出て多くの人と接しています。それは生れた時からそうなのではなく、今までの体験から何とか人と接することは自分にとって大切なものであると少しずつ思えるようになってきた過程があるからだと言えます。むしろ今でもバランスを微妙なところで取っている感じです。

 教育は「強制」なのかという議論があります。子供の個性が多用である以上全ての子供にとって楽しい教育やしつけというものは有り得ないので、もし大人が善意を以て教育してもその時子供がそれに対して興味を持たなかった場合は、それは子供にとって「強制」となります。

 このこともまた掘り下げてみたいテーマですが、私は教育において「強制」が良いか悪いかの議論よりもむしろ、教育は現実的には上記の理由により「強制」の面があるときちんと認識することが大事かと思います。倫理的にも教える側は責任感を持ち、手法をきちんと考え、自分が誤っていると思えば誠実にそれを伝えることの方が大事だと思います。

 もちろん強制ではなく自発的に学ぶこてゃ大切なことです。しかしやる気のない他者に直接「自発性をもて!」と言うことはギャグやネタとしては成立しますが、理論的には無茶苦茶です。自分の中から発するから自発性なのであり、人から言われて発するものではありません。ただもちろん個人が自発性をもつためにも周りの働きかけは重要であり(恣意的であってもなくても)、ゆえにモチベーションに注目することは非常に大切になります。

 少し余談ですが、先ほど述べたように個人は周りの環境から、望む望まぬにかかわらず影響を受けます。引きこもりの場合、人が引きこもる原因は多種多様でしょうが、結果として出来るだけ他者からの影響を受けないようになるという効果はある程度一般的であると言えます。悲しくて苦しいから引きこもるという場合もありますが、例えば作家のように自分の世界を突き詰めるため、他者の影響を受けないよう引きこもるというケースもあります。従って引きこもりという場合も全てが受け身でそうなったのではなく、自らそうするという要素も高いこともあるという視点も見逃せません。

 話を戻すと、私は人は完璧ではないので間違えるものだとも認識しています。だからこそしっかりと考え、しかし失敗を恐れず積極的に意見を述べ行動し、他人の意見や立場も理解しようとする個人が集まった社会が望ましいとの意見を持っています。

 では次回は今回の話を踏まえてモチベーションを重視しながら「基本的な教育」(と考えられる一つ)をどうやって行うのか考えていきたいと思います。