開湯千年の湯の町が始めたコメ再生運動の続きをのせています。

開湯千年の湯の町が始めたコメ再生運動
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日本の農山村を数年にわたって取材してきた経済学者の金子勝さんが、その報告書ともいうべき『食から立て直す旅』(岩波書店)でこう言い切っている。「あと10年もすれば、日本の農山村は地滑りを起こすように崩壊していくことだろう」と。その理由は大きく二つ。ひとつは農業の担い手の半分以上がすでに 65歳以上になって久しいこと。もうひとつは、財政赤字を背景にした地方切り捨ての政策の加速化。まさか、と思う人も多いかもしれないが、実際に現場を歩けば、果たして10年さえも持ちこたえられるかと思われるほどの農山村の衰退ぶり。それほどに日本の食を支える現場は深刻なのである。そして、都市の華やかな食品売場や外食産業の林立に慣れた人々には信じがたいことかもしれないが、日本の食料生産力は急速に崩壊していくと思われる。

高齢者に支えられている中山間地の米作り
 それは日本人の主食である米にも及ぶ。私が歩く東北の農家からは「もうこれ以上、米を作り続けることは出来なくなった!」の、あきらめと悲鳴の声がひんぱんにきこえてくる。すでにこの10数年で40%も下落し、1俵(60kg)1万2000円にまで落ち込んだ生産者米価。加えて大規模農家だけに政策支援の対象をしぼり、70%の中小農家を切り捨てた日本農政。この10年間で60万戸に及ぶ農家が耕作をあきらめ離農し、耕作放棄地は10年で2.4倍の38 万haにまで拡大した。ちなみに38万haとは190万tの米が収穫できる広さである。190万tとは日本人、3160万人が1年間に消費する米の量である。こうした離農する人々と耕作放棄地はこれからますます加速化して拡大していくこと必至であるが、この流れをくい止める道はあるのだろうか。

前回の続きを下記でご覧ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ≪この世には、あきらめてはならないことがある。

失ってはならないものがある。それは、生命と生存のための食料と、それを育ててくれる人々と農地である。

そして、その中心は米である。米が村をつくり、国をつくった。米が水と土と緑をつくり、文化を育んだ。

米とともに家族の暮らしと歴史があった。米を失うことは、私たちの最も大切なものを失うことになる。静かに食料危機がせまっている。

もう一度、食の作り手と食べ手が向かい合い、互いに支え合う道を切りひらけないか≫

 最近、こんなマニュフェストを掲げて、後退する農業を地域の人々の力で再生させようという試みが東北の中山間地域で始まっている。

農政に頼らず地域の力で地域の食と農を立て直そうと立ち上ったのは、宮城県大崎市、旧鳴子町の人々である。

東北有数の温泉地として知られる旧鳴子町であるが、この町には今でも 620戸の農家がある。しかし、山間地ゆえに雪は深く、夏も気温は低く、山に囲まれて日照時間も短い。

そんな条件不利地域であるが、なんとか農業で生きたいと原野を拓き牛を飼い、ようやくにして米づくりが本格化したのは昭和40年頃。

そんな苦労の末の開田と同時にはじまった減反政策。それでも懸命に米づくりをしてきたが、この10年で水稲作は31%も減少し、耕作放棄地も21haから95haへと4.5倍にも増加した。

 そこに追い打ちをかけるようにはじまった農地の大小をモノサシにした日本農政の大転換。鳴子町の農家620戸中、支援を受けられるのはわずかに5戸のみ。

公的支援を失った大多数の農家はどうなってしまうのか。

もしこのまま耕作放棄地が増えれば、開湯千年の歴史をもつ湯の里が荒れ野原になってしまう。誰がそんな茫茫たる温泉地にやってくるものか。

豊かな田園と自然を失うことは温泉地の死活問題。そう気づいた温泉地の人々が立ち上った。そうして結成されたのが地域のみんなで農業を支える「鳴子の米プロジェクト」。