福澤諭吉の続きです。

続きです。

1834(天保5)年、福澤諭吉は豊前国(現在の福岡県・大分県の一部)中津藩の下級藩士の息子として生まれた。

幼い頃より封建制度に疑問を持ち、漢学や一刀流剣術を学ぶ一方で、しきたりや信仰といった類には無関心であったという。 

やがて黒船来航をきっかけに、長崎、ついで大坂に遊学し、緒方洪庵(1810〜1863)に蘭学を学ぶ。

1858(安政5)年には江戸に出て、のちの慶應義塾のもととなる私塾を開いている。蘭学に続いて英学を修めると、幕府による遣欧使節団に翻訳方として随行し欧州に渡る。

先進諸国で見聞きした経験から、洋学の普及の必要性を実感した諭吉は、『西洋事情』などにより洋学を広め、

明治維新後も『学問のすゝめ』『文明論之概略』など多くの著作を通して先進諸国の文化や国づくりの要諦を伝えた。

明治初期における日本開明の気運は、福沢諭吉の影響が大きいともいわれる。

また、明治政府に出仕を求められるが固辞し、あくまで民間の教育者であり続けた彼が開設した慶應義塾は、近代私学のさきがけとして、各界に指導者となる人物を輩出し続けてきた。

仮名垣魯文著『安愚楽鍋』(横浜開港資料館 提供)明治初期の牛鍋屋の光景を描いたもの。

洋食、なかでも牛肉食の普及の影響によって、庶民を相手とした牛鍋屋の数は急速に増加していった。