前回の 福沢諭吉(1834〜1901)の続きです。

前回の 福沢諭吉(1834〜1901)の続きです。

1868(明治元)年、元号が明治に変わると、「文明開化」の時代が到来した。明治新政府は日本を近代国家へと成長させるべく、制度・産業・文化の西洋化を積極的に進めた。

そのこともあって、西洋文物の流入と生活様式の洋風化が進み、西洋の食文化が徐々に導入されていった。 

江戸時代、肉食は表向きには禁止されていたが、明治時代になると、政府が肉食を推奨したことから、東京や横浜などで牛肉食が大流行した

明治初期の『東京開化繁昌誌』によると、当時の人々は牛肉をすき焼きやなべ焼き、煮つけなどで食していたという。

 また、各界著名人も牛肉食を奨励していた。具体的には、戯作家である仮名垣魯文(1829〜1894)は著作『牛店雑談安愚楽鍋』の中で「士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と記し、

文学者・服部誠一も「牛肉の人に於けるや、開花の薬舗にして、文明の薬剤なり。その精神を養ふ可く、その腸胃を健やかにす可く、その血肝を助く可く、その皮肉を肥やす可し」(『東京新繁昌記』)と牛肉を讃えている。

洋食は、もともとはフランスやイギリス料理を指していたが、やがて日本人の嗜好に合わせ徐々に改変されていった。その中で「西洋料理にはない洋食」も誕生するなど、そのバリエーションは時代を経てますます多彩になっている。

 福沢諭吉も、「今我国民肉食を欠いて不摂生を為し、其生力落す者すくなからず。即ち一国の損失なり」と肉食の必要性を説いている。 

その諭吉は、肉食だけでなく、ほかの洋食も好んで食したようだ。『西洋衣食住』では、「西洋人は箸を用ひず。肉類其外(そのほか)の品々、大切(おおぎり)に切りて平皿に盛り、銘々の前に並べたるを、右の手に庖丁を以てこれを小さく切り、左手の肉刺(にくさし)に突掛て食するなり」と西洋の食習慣を紹介しているほか、ビールやワインといった西洋の酒についても紹介している。

諭吉が晩年に友人に出した手紙には「朝、(中略)食前に牛乳に紅茶かコツヒー(コーヒー)を加へ、パンにバタあれば最妙なり。宅にては毎朝用ひ候(後略)」とあり、自宅での朝食はほぼ洋食であったことがうかがえる。

 明治初期、外国文化の流入によって、日本の食文化も大きく影響を受け、徐々に変化していった。そうしたなかで肉食文化をはじめとした洋食は、文明開化の象徴として浸透し、今日に至る。その背景には、福沢諭吉ら文化人のもたらした影響があったのだ。