学校での人権侵害に関して

◇◆双方には双方の言い分があるので
 簡単に歩み寄ればよいとは言えないのです
◆◇

ちょうど、大地震の勃発したその日の朝刊で、
法務省の昨年の学校や家庭等での暴力など
人権侵害についてまとめたという小さな記事を
読みました。

小さな記事なので、あまり詳しくは書かれてはいないのですが、
要約すると、児童らのイジメにたいする学校対応の不備がH22年の方が、
H21年よりも5割増加したほか、教職員による体罰や行き過ぎた指導も
2割以上増えている→これは、相談窓口の存在が知られるようになり、
潜在的にあった事案が掘り出されたのではないかと法務省の担当局はみている。

『想いと受け止められ方』

という視点から考えてみると、先生方(学校側)には、こういう考え方があり、
また、生徒側(親を含め)にはこういう心情がある。
松尾のケースでも中学時代を中心にイジメを受けましたし、
先生にバカにされたり、棒で頭を叩かれたりしました。

何で、こんな目にあわないといけないんだ…
と当時(いえ、最近までですね)は考え悩みましたが、
今では相手側が悪いとか、学校(日本人)そのものが…
というようには捉えなくなりました。

最近まで、松尾は自分のことばかり考えていて、
(自分の立場でばかり、物事を考えていて)、
相手側の立場にたって、物事を考えていくという
多面的な見方で柔軟な発想が乏しかったのですね。

また別の機会に書かせて頂きたいと思いますが、
先生の立場に立って物事を(少なくともこの件を)
考えたことがあるのかということなのです。
当事者側の許容範囲内=イジメはいじめた側も当事者という
多面的に見る やわらかく懐の深い発想がどうも乏しかったような気がします。

そのような視点で物事を捉えていくと、
また違った事柄を考え、結果として得られることも多いと思うのですね◎

『果たして自分はどうだったのか』

松尾はいじめられた事もいじめた事もあります。
いじめられた事というのはよく覚えているものですが、
いじめた事というのは忘れてしまっているものなのですね。
もしくはこちらとしては、軽くからかっただけのつもりだったんだけれど…、
からかわれた方は、深い傷となって松尾の事を深く恨んでいるということも
あるかと思います。

『イジメを受ける』とは、これほどつらく、くやしく、しんどいことはありません。
自分は教師にいじめられた経験があるが、他人にたいしては
イジメなどしたことはないよと胸を張って言える方が何名いるだろうか。
人間とは弱く脆いものです。忘れていることもあるし、あれはイジメではないよ
というケースもあるでしょう。
(イジメを受けたことだけを覚えている心は悪くはないのですが。)

相手がいじめられたと感じれば、それは『イジメ』なのではないでしょうか…?
そう発想できれば、いろいろなこと・新しい視点が生まれそうですね。
何よりも大切なことはこれからのことですから。
今、日本は何かの要因でリセットしたような状況になっていますね。
それが一概に良いとは言えないのですが、
もう一度、いろいろなことについて考える機会があるのではないでしょうか…?

≪数日前の、桜の木は蕾が固く閉じたままです。
ですが、数日後には、花開くまで成長するものですね(^v^)≫